【14年12月7日探索・15年1月20日公開】
現在地はここ
今昔マップではこんな感じ
浅間峠には案内看板、あずまやの他に、石製のものが建っていた。
よく見ると道標である。
正面、右に行くと「小宮戸倉を経テ五日市に至ル」左は「山梨縣棡原村を経テ上野原町ニ至ル」と刻まれており、他の面には「大正十四年十一月」「上川乗青年建」という、建立時期と建立者が刻まれていた。
よく見ると道標である。
正面、右に行くと「小宮戸倉を経テ五日市に至ル」左は「山梨縣棡原村を経テ上野原町ニ至ル」と刻まれており、他の面には「大正十四年十一月」「上川乗青年建」という、建立時期と建立者が刻まれていた。
そして左側の面だが、これも道標になっていた。「山梨県棡原村三二山ニ至ル」と刻まれていた。
これは、大正14年の時点で、山梨県側には既に2ルートが存在していた事を意味する。
これは、大正14年の時点で、山梨県側には既に2ルートが存在していた事を意味する。
現在の道標の脇を通り、上川乗へと下りていこう。
説明が無ければただのハイキングコースだな。
しばらく下っていくと、ほどなく石碑のようなものが見えてきた。
訂正しよう。馬頭観音だった。
寛永6年(1853)の年号が刻まれていた。
寛永6年(1853)の年号が刻まれていた。
この云われは、檜原村史に載っていた。その記載はこうだ。
「上川乗に住む浜中伊左衛門が、繭を買入れて来る途中で馬が落ちて死んだために建てたと伝えられている。」
「上川乗に住む浜中伊左衛門が、繭を買入れて来る途中で馬が落ちて死んだために建てたと伝えられている。」
・・・江戸時代から、馬が通るほどの主要な道であった事になる。
ちなみに、今通行中の、浅間峠より檜原村側は、大正11年7月に東京府道213号五日市上野原線として認定されていた。
ちなみに、今通行中の、浅間峠より檜原村側は、大正11年7月に東京府道213号五日市上野原線として認定されていた。
路面状態は回復してきた。が、乗車する事はやめておいた。
掘割状に道が造られた場所があった。
小刻みにカーブがあったので、このあたりは七曲りとか呼ばれていたのかもしれない。
(その4・最終回につづく)