【16年1月17日探索・4月24日公開】
本日の記事の進行は3番から4番になる
現在地はこの辺
そろそろ谷の一番奥に近づいていた。
そんな谷の一角に石垣のような構造物があった。
この立地にあれば、もうあれしかない。
そんな谷の一角に石垣のような構造物があった。
この立地にあれば、もうあれしかない。
間違いなく、橋台だろう。
この林用軌道の廃止は明確な資料がないのではっきりしないが、接続線である東武矢板線の廃止(昭和34年6月)よりも後という可能性は低い。昭和34年(1959)の廃止だったとして、廃止後57年が経過している事になる。
橋自体は木橋だったものと思われるので残っていないが、橋台が残存していた事で私のモチベーションが上がった。
この林用軌道の廃止は明確な資料がないのではっきりしないが、接続線である東武矢板線の廃止(昭和34年6月)よりも後という可能性は低い。昭和34年(1959)の廃止だったとして、廃止後57年が経過している事になる。
橋自体は木橋だったものと思われるので残っていないが、橋台が残存していた事で私のモチベーションが上がった。
その先は、こんな平場があり・・・
ほどなく見えたのがこの砂防ダムだ。
この砂防ダムは水源流域保全事業として平成17年度に施工されていたものだった。
砂防ダム自体の名称は不明だが、この沢がモモノキ沢という名である事は銘版に記載があった。
この砂防ダムは水源流域保全事業として平成17年度に施工されていたものだった。
砂防ダム自体の名称は不明だが、この沢がモモノキ沢という名である事は銘版に記載があった。
砂防ダム自体は軌道に関係なさそうに見えるが、軌道にはこの辺で谷の最奥に架かっていたであろう橋にてこの沢を渡っていたはずだった。
つまりは、砂防ダムの建設がが軌道跡を多少なりとも破壊したであろうという事が推測された。
つまりは、砂防ダムの建設がが軌道跡を多少なりとも破壊したであろうという事が推測された。
さて、谷の最奥から折り返す。
が、少しの間はこの林道か作業道に呑みこまれたのか、軌道跡が見つからない。
が、少しの間はこの林道か作業道に呑みこまれたのか、軌道跡が見つからない。
20mくらい下流側に進み、崖をよじ登ること約3m、そこには路盤が石垣付きで残っていた。
平場があれば順調、というワケでもない。
現在の軌道跡は通る人も無いのだろう。荒れ具合、ここはまだいい方だ。
現在の軌道跡は通る人も無いのだろう。荒れ具合、ここはまだいい方だ。
ここはほとんど平場が残っていなかった。
下までは崖が15mくらいはあった場所だったので、間違っても滑落などしないように四本足で慎重に進んだ。
下までは崖が15mくらいはあった場所だったので、間違っても滑落などしないように四本足で慎重に進んだ。
木が多数倒れていたが、軌道構造物とは関係ないものであろうか。
作業道(たぶん)が近づいてきた。
そして、路盤は徐々に道路に削られていた。
そして、路盤は徐々に道路に削られていた。
ここで平場は完全消失した。
道路までは4、5mあった急な崖だが、慎重に降りる。
道路までは4、5mあった急な崖だが、慎重に降りる。
いったん、道路に出た。
ん!!この道、見覚えがあるぞ!
ん!!この道、見覚えがあるぞ!
第1次探索の時の4枚目画像付近がちょうどこの場所にあたるようだ。
最悪の場合のエスケープルートが確保できた事になり、ホッとした。
少しの間この道を進むが、いずれ軌道跡は道路と分かれるはずだ。
(その5へつづく)