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群馬県高崎市 里見軌道? 謎の遺構再訪(前編)

【15年5月17日探索・5月25日公開】


現在地はここ

群馬県高崎市上室田町 国道406号線の現道が湯殿山トンネル(1993年竣功)に
入り、その旧道が分岐しているところだ。
これから向かう場所は5年前の記事の遺構になる。
以前より再訪したかったのだが、14年12月、本年1月、4月と、探索予定に組み込
まれながらいずれも時間切れで訪問できずにいた。

5年前の訪問でいったん積み込み施設と推測した遺構だったが、どうも腑に落ちなかっ
た。
なので再度確認し、当時よりは多くなった読者様の知見も乞う事で、自分の探索史上で
ずっと気になっていた謎を解明しようというのが訪問目的だった。





旧道を進む。
この先の旧道の突端のような場所を右折する。





本当に急な下り坂だな・・・





そして、このヘアピンカーブも健在だった。
せっかくだから・・・





交換されたスマホに新しくインストールしたアプリで遊んでみる。

正しいかどうかはともかく、こうやって数字で、しかも勾配標識のように表示されるの
は楽しいな。





現在地はここ

坂を降りきった。
正面は室田発電所(明治37年稼働開始)だ。
私はここで右折する。





この吊り橋も、健在だった。
まあ、5年くらいじゃ変わらないか・・・





こんな徒歩道を進んでいく。





里見発電所関連の建物が見えてきた。
前回訪問時には東京電力の人がいたんだよな・・・





現在地はここ

今回は無人だった。
ここからは車道だ。
とは言っても、遺構はそう遠くない場所だったはずだ。
5月になって若葉がすごいので、見落とさないように進む。





あった、あった。
あれ、こんなに短かったかな??

まあいい。さっそく降りていこう。





大きな木の向こう側あたりから下降を開始する。





この画像は、下降途中に、遺構の方を向いて撮影したものだ。

何か、様子がおかしい・・・

(後編へつづく)

  

群馬県高崎市 里見軌道? 謎の遺構再訪(後編)

【15年5月17日探索・5月26日公開】


現在地はこの辺

崖はそれなりに急だが、木が多く手がかりがあるので比較的すんなりと河原に降り立
った。

で・・・

やっぱり、変化があった。
できれば5年前の記事と比べながら見てほしい。

以前は崩れていないものが崩れ落ちていた。





遺構本体の、ちょうど横から見たところだ。
読者の方にも意見を頂こうと思い再訪したのだが、原型を留めているとは言い難くな
ってしまった・・・





いろんなものが崩れていた。
完全に組み立てられれば何かわかるかもしれないが、私はこれだけ大きなパズルをす
るだけの力は持ち合わせていない。





とりあえず、撮れるだけの画像は撮っておこう。
次回来ることがあっても瓦礫の山になっていかねなかった。

ところで、これが何であるのか?だが・・・もう少し考察してみる。





「隧道部」はたぶん今回でくぐり納めになるだろう。





5年前でも充分怖かった。
今回、さらにスリルは増していた。





私はこれを1往復したのだが、気分的にはイヤなものだった。
鉄筋も入っているので即崩れ落ちる事はないだろう。とは思ったが、それでも
少なくとも他人に勧められるものではなかった。





反対側だ。
大まかな原型はまだ保っているが、この鉄筋によって辛うじてぶら下がった状
態のものは元々何だったんだろうか?





もう少し引いて撮影した。
穴の部分もあやしいが、基礎部分も充分怪しかった。





さて、この遺構の考察だが・・・

崩れ落ち、河原に転がっているものから考えてみた。





この形状・・・
これは水が流れる場所ではなかろうか?

そうなると、軌道関連の遺構である可能性は低いと言わざるを得ず、やはり・・・






約100m上流にある、里見発電所の取水口の、旧施設なのではないかと思う。
「隧道部」も水が流れる場所だったのではないだろうか?
崩れた巨大瓦礫はあるいは堰があったものだったかもしれない。

裏付けるべく古い航空写真を探したが、昭和22年版しかなく解像度が低かった。
判然としなかったが、現在の堰の場所より下流に堰らしいものがある雰囲気があ
った。
あと、ここ里見発電所は大正7年に完成しているが、あの取水口はどう見たって
大正時代のものには見えない。
昭和39年の航空写真には今の堰であろうものが写っていた。
にしたって、50年以上経過している事になるが・・・


(おわり)


    

山梨県甲州市 大府羅沢水路橋への道(その1)

【15年4月19日探索・5月27日公開】


3年前、ブックオフで購入した「日本の近代土木遺産(土木学会編)」は私の愛読書のひとつだ。
その本の山梨県の欄に「初鹿野発電所 大府羅沢水路橋」という名前が載っている(Cランク)のだが、その名をウェブで調べてもそれらしい画像は引っ掛からない。
以前の自分の記事を含め、まだウェブ上では到達したとされる報告はなかった。

何でも大正7年に完成した長さ63.5mの石のアーチ橋らしい。土木遺産に認定されるくらいだから、見ごたえはあるのだろうと思う。
そう、その水路橋に行きたくて、私は過去3回もチャレンジしていたがその結果は全敗だった。

そもそも大府羅沢という名の川が、どの地図を見ても見つからない。
それでも消去法により、ここだろうという予測は立てた。
おそらくここであろうと思う。あとは情報が無い中で、どこからアプローチするかだ。


そんな訳で山梨県甲州市大和町を訪問した。もう何度めなのだろう、この橋も。





日川の、その少し上流にあった橋のアプローチ部分だ。再訪時(前編) (後編)橋はもう架けられる事がなさそうだ。





現在地はここ

今回はアプローチルートを変えてみようと思う。
過去、いずれも竜門の滝側からアプローチし、毎度敗退していたので、今回は万を持して・・・

この先の斜めになったガードレールの道を登ると・・・





こんな坂になる。
これを10mほど進み振り返る。





地図を読む限り、ここからのルートが最もよさそうなのだが・・・





どう見ても民家だった。
その先に道があるのかもしれなかったが、チキンな私はこの先に進めなかった。





日川右岸の道を探してみる。
このあたりからだと、標高差がありすぎかも。





で、結局いつもの・・・





現在地はここ

過去3度敗退した、上流側からのアプローチになる。
地理院地図では、ここから点線ルートがある事になっているが・・・





道なんて、どれだ??





いきなりの迷走ぶりだ。
この雰囲気じゃ、今度もまたダメか??





結局うろうろしてたどり着いてのはこの記事中に出てくる、間貫沢竪坑だった。





その先、わずかな踏み跡があるんだよな。
過去には撤退した道なのだが、まただまされてみようか??

(その2へつづく)

  

山梨県甲州市 大府羅沢水路橋への道(その2)

【15年4月19日探索・5月28日公開】


現在地はこの辺

地図との照合だが、どう見ても破線の道として描かれているルートではなかった。
ここなどは別になんて事はないように見えるだろうが、実際はかなり怖い場所だっ
た。
ま一応あるかないかわからない位の平場だが、そこには落ち葉が大量に溜まって
おり、下の素の地面状況が不明な事だ。滑りやすい岩とかだと危険なのだ。
もしも滑落した場合、この斜面ではどこで止まるのかもわからない。





なので、ラッセルしながら、一歩ずつ慎重に進んだ。





ここなどは普通に進める場所だった。
左に杭が抜かれた状態で放置されていたが、この杭は森林管理の境界を示すもの
だろうと思う。





間貫沢竪坑から40分以上歩き通しだった。
けっこう苦労して通っていた道であったのだが、いかんせん絵にならないので記事
的には飛ばす。





現在地はここ

いくつか谷を越えていたのだが、これが最大の谷と思われる。





とりあえず上に行ってみよう。
このワイヤーは荷物運搬索道と関係ありそうだ。





尾根筋まで上がった。
これが大府羅沢であろう事はほぼ間違いないだろう。





その右側も見てみた。
相当遠くに、過去に林道沿いで見かけた林業用索道の基地が見える。
帰路としてそのルートを使うのは得策ではないな。





谷の方へ下っていく。
地図がある程度正しければ途中で破線の道とぶつかるかもしれない。
そうしたら谷の回り込みの場所から沢沿いを進んでいけるだろうし、あわよくば
地図には描かれていない管理用通路があるのかもしれない。





途中、谷側に降りるべく方向を変えて・・・





絶対に道じゃないところを無理やり下りていく。





すると、沢までもう少しの場所で明らかに「道」とぶつかった。
これは、破線の道なのか?あるいは・・・

私は上流方向に向かって歩き始めた。

(その3へつづく)

  

山梨県甲州市 大府羅沢水路橋への道(その3)

【15年4月19日探索・5月29日公開】


現在地はこの辺

この場所が元々の破線の道なのか、東京電力の管理用通路なのかはわからなかったが、この先の階段の造りには見覚えがあった。
この厚手のゴムで階段のステップ部の崩落防止をしている。これは間貫沢竪坑近くの階段で見たものと同じ造りだった。という事はここは既に東京電力の管理に使われているルートと考えて大丈夫だという事だった。





その先には、まともな橋が架かっていた。





が、その先の橋は・・・





本当に通れるのか?という状態だった。





ここも傾いている事もあって、油断ならない。





そして一番の衝撃がこれ!
階段の手前側、橋、折れてる??





それでも通路として使われているようだ。
よく見ると、折れた橋がそのまま使われているのか??

その可能性も否定しきれないが、最初からこんな設計の橋を造っていた可能性もある。





いったん下って沢を渡り、登りに入った。
この通路の怪しさからすると、やはり橋自体が破壊されたのかな??





階段の先に看板が建っていた。
この先にもまた竪坑があるらしい。





こんな通路のどんづまりが・・・





現在地はここ

これが竹の沢暗きょ竪坑、大正7年(のはず)完成した水路施設だ。






中は特筆するようなものではなかった。

さて、先程の怪しい橋まで戻って、残りわずかとなった水路橋アプローチへと進む。

(その4へつづく)

  

山梨県甲州市 大府羅沢水路橋への道(その4)

【15年4月19日探索・5月30日公開】


現在地はこの辺

竹ノ沢竪坑から「本線」に戻る途中だ。
往路でも通行した大府羅沢と思しき川を渡る「橋」なのだが、やっぱりこれは落橋した
ものを応急処置的に修理しとりあえず使用しているように見えた。





「本線」を小走りに上がっていく。
もう少しだ・・・






そして、ついに見えてきた。

路面はこんななので慎重に近づく。





石造りのアーチ橋である事が確認できた。
6連であるようだ。





向かって右側から観察してみよう。





改めて、大正7年竣功の大府羅沢水路橋だ。
土木遺産(Cランク)に登録されていながら、これまでその画像は少なくとも私が調
べた限りでは見ることができなかった。
右側(上流側)は3連のうち真ん中の1連だけがアーチのスパンが広い。
迫石の施工も、両側の狭いアーチのものは違う手法が採用されていた。





アーチ下側になる。
鍾乳石が出ているような感じだった。





今度は向かって左側(下流側)だ。





境界柱のようなものが転がっていた。





脇の階段を上がっていき、これが水路の下流側坑口になる。





そこで振り返った。
水路上流側という事になる。
水路橋は「く」の字型なので反対側坑口をここから見ることはできない。

水路はコンクリートで出来ているように見えるが、オリジナルなのだろうか??





最後に、「く」の字のほぼ全景をどうぞ。

(その5・最終回につづく)

  

山梨県甲州市 大府羅沢水路橋への道(その5・最終回)

【15年4月19日探索・5月31日公開】


現在地はこの辺

最終回はいわば脱出編になる。

往路で道路ではない斜面を下ってきたのがこの辺だった。
帰路は、往路の通りに戻ろうという気はなかった。
この東京電力の巡視路を通り、それがどこに出るかのかを確かめたかったのだ。





なので、斜面を登る事などせず、その先に進む。
これだけ綺麗に整備されている道なのだから、帰路は楽勝だな、きっと・・・
そんな事を考えながらやや小走りに歩く。





その先で通路は大きく回りこむようだ。
ちなみに見えている看板は平成2年の治山事業を示すものだった。





あとは日川沿いに下っていきどこかで日川を渡るのだろう。
ただ、私も過去3回も探索してきて、そんな楽に水路橋まで行けそうな
通路があった事を完全に見落としていた事になるので、その事を考える
と複雑なキモチになる。

先のほうに橋が見えてきた。
大府羅沢水路橋のところからの流れだろう。





はあ?

橋の手前で少し躊躇した。
だ、大丈夫かな、この橋は・・・





床面の頼りなさもそうなのだが、欄干というか手すりになっている構造物がグラグラになっており、これまた頼りなかった。
ともあれ無事渡りきった。





上流方向を見ると、小さいながらも見事な滝と何か石碑があった。





○○不動尊・・・最初から解読しようという努力を放棄した(笑)。





道はどんどん日川の標高に近づいている。





現在地はたぶんここ

地理院地図で描かれている破線の道2本はどこかで繋がっていた事になる
ようだ。

日川を渡った向こう側にはまた通路の階段が見えた。





が、肝心の橋はなかった。
もちろん多少迂回している事くらい考えていたのだが、どこにもそんなもの
は架かっていなかった。

結局私は、大菩薩嶺のまだ冷たい雪解け水が流れる日川の水深が浅いところを
裸足になって渡ったのだった。





日川左岸に渡った。
記事的には何気なく繋がっているが、かなり迂回し、ひざ位まで濡れた足を拭い
たり、なんだかんだで30分くらいはこの渡河に要していた。





その先にはちゃんと巡視路が続いていた。





満開の桜の木のところを左折すると・・・





現在地はここ

景徳院入口のところに出るようだ。

巡視路ルートがここからだったのがわかったのは良かったのだが、日川本流に
橋が架かっていないのがルート的には激しくマイナスだった。

このルートで水路橋に向かうなら、携帯用橋梁持参か、40cm以上(平常時)
ある長靴を使うとか、濡れる前提で行くか、のどれかだろう。

(おわり)

  

静岡県静岡市 興津川・木製の揺れた吊り橋

【15年3月22日探索・6月1日公開】


静岡県静岡市清水区但沼 県道75号線沿いに但沼漁協がある。
その裏手にある興津川に架かる橋記号が気になった。

左折し漁協の駐車場に入る。





そしてその先に行く道がある。





このカーブを曲がると・・・





あった!吊り橋だ!





これもまた静岡県内でよく見かけるタイプだった。
吊床版橋に分類される、で、いいのかな。





この日は雹が降ったり、にわか雨があったりと、不安定な天気だったので床板は濡れている。
なので慎重に渡ろう。





床板部分の幅は60cmくらいだろうか。
現役の橋と見え、渡るにあたっての怖さなどはない。





不安定な天気ゆえ、風もそれなりに強かった。
当然、こんな橋が揺れないはずがなかった。





橋の長さは50m強といったところか。
地図ではここに荷物運搬用の索道が描かれていて、そのメンテ用の通路として、橋の先、山の上まで道は続いているようだ。





渡りきり、振り返った。





河原から見上げるとこんな感じだ。

ところで、なぜ静岡県内の吊り橋は、ほとんどがこの形式なのだろうか??

  

埼玉県小川町~寄居町 東上線に絡む道路(前編)

【15年4月26日探索・6月2日公開】


現在地はここ

埼玉県比企郡小川町靭負 東武竹沢駅横だ。
横に停まっている列車は、池袋には来なくなった8000系の残党、ワン
マン化改造された編成だ。

私は、この東武竹沢駅~男衾駅までの小さな峠越えの最中に線路沿いにまと
わりつくかのような道路が気になっていた。

なので、ほとんどの人には関係なさそうな記事だが、私はここを探索して
レポする事にした。

東上322号踏切を渡り、線路右側を進む。





その先、特筆すべきものがあまりない。
が、この先の左側・・・





1.9m制限の低いガードがあった。





さて、また線路沿いを走っていく。
国道254号線のバイパス下をくぐる。





道は緩やかながら登り坂が始まった。





現在地はここ

簡易バリケードがあったのでこの先には進めないのかと思ったら、
自転車や徒歩ならまだ行けるようだ。





未舗装の道路はピークに近づいた。





いったん東上線線路から離れるとみせかけ・・・





すぐにまた線路際になる。

少し先、パワーショベルが停まっていた。





工事車両はどうもこの地点の工事らしい。

これはてつ鉄道の工事(線路の擁壁)なのか、道路工事(路肩)、よくある
工事看板が見当たらなかったのでわからなかった。





このあたりの路面にはこんな小さな杭が埋め込まれていた。

「境界 小川町」と刻まれていた。
小川町側はとりあえず町道でいいのだろう。





このあたりが町境になるあたりか。
通行止用?バリケードがあった。
寄せられていたので助かったが、全面通行止になっている日もあるという事か。

(後編につづく)

  

静岡県静岡市 激レア? 軌道人道併設橋

【15年3月22日探索・6月3日公開】

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イメージ 1

yahoo ブログがしばらくアクセスエラーになっていて、記事が書けなかったので、本日は小ネタでご勘弁を。。

現在地はここ→ http://yahoo.jp/NHvho1

静岡県静岡市清水区高山 県道75号線沿いでたまたま見つけた橋だ。
これは・・・レアだ・・・



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イメージ 2

何が珍しいかって、モノラックらしい軌道と人道が併設されているのだった。



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イメージ 3

上のほうに「車両」が停まっており、この橋も「現役」である事が期待できた。



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イメージ 4

ちなみに橋の造りは・・・ラーメンか??
よく見るとかなり華奢に見えた。

軌道車が通行するところが見たかったなあ~

  

埼玉県小川町~寄居町 東上線に絡む道路(後編)

【15年4月26日探索・6月4日公開】


現在地はこの辺

カントリーサインがあるわけでもないが、ちょうどこの辺が比企郡小川町と
大里郡寄居町の境になっている。





なので、ちょっとだけ進んだところには「寄居町基準点」と書かれた標柱が
建っていた。





道路が線路よりも低い位置になってきた。
この先で道路は線路をくぐる。





これがその橋になる。





高さは充分あるのだが、見た瞬間「狭いな」と思った。
実際に測ってみると、1ヘリオスあまり10cm=1.65mといったと
ころか。
ゆがんでいるような印象があるが、スルーしておこうか。




反対側から見ると、プラットトラスの部分(ケーブルの橋?)があうので、
より橋っぽい。





現在地はこの辺

線路をくぐった寄居側は、怪しさがまったく感じられなくなっていた。





左側は本田技研の工場敷地なのだが、動物や鳥のため、ビオトープ的に整
備したようだ。





なので、ため池も以前より小奇麗になっていた。





その先ももう普通の道だ。
ただ、この看板だけが・・・





この先で道が怪しくなるという唯一の証人になっていた。





その先で吉野川を渡り、町道は国道254号線に合流するのだが、国道のこの
あたりの区間よりもずっと前の時代から、生活道として利用され続けている
さりげない道路でもあった。

(おわり)

  

群馬県高崎市 厚労省施設の未成道(前編)

【15年5月4日探索・6月5日公開】


現在地はここ

群馬県高崎市乗附町 高崎のシンボルとも言える白衣大観音が見える。

この先の、国立のぞみの園(知的障害者総合施設)の先に、どうも通行できない道路があるようで、それを確かめるべく現地へと向かった。





地図を見る限り、特にここから私道になるようには描かれていないようだった。
実際はこの門から向こう側は「のぞみの園」の敷地になるようだが、特に通行を咎めるような文言は見当たらなかった。





敷地内なので、あまりツッコんでも仕方ないが、見かけない標識やセンターラインが珍しかった。





メインの施設群を過ぎると道路は下りに入る。





坂を下ると橋が見えてきた。





名前がわからないな、この橋。
構造もなぜか気になるな・・・





そんな訳でもう一度橋の手前側から降りて構造を見てみた。
よくは見えないが、ちょっと意外な、リブアーチ橋だった。





そして銘版も探したらありました!

十貫山橋、1970年7月の竣功である。
施工主は厚生省、製作は三井造船、橋ではあまり見かけないと思っていたが、ちょっと調べたら私が不勉強だっただけのようだ(現・三井造船鉄鋼エンジニアリング)。





現在地はここ

その、十貫山橋を渡りきると、道なりは右方向なのだが、左側にも分岐がある。
その先は明らかに供用されていないようで「悪路のため通り抜け出来ません 国立コロニー」という看板と、バリケードに「車両通行止」の表示があった。

この看板の「国立コロニー」だが、これは昭和46年(1971)にのぞみの園が出来た時の名前である。
手前の橋が昭和45年だから、ここから先の廃に見える道も同じ時代に造られた可能性が高いと見た。





「車両通行止」なので、単独で進もうと思う。





上の画像から10mくらい進んで振り返った。

まだ先程のバリケードが見える位置だが、木々に隠れていた「止まれ」標識と「園内周遊道路につき徐行」という看板を発見した。

(中編につづく)

  

群馬県高崎市 厚労省施設の未成道(中編)

【15年5月4日探索・6月6日公開】


現在地はこの辺

道は、一時的ではあるが鬱蒼とした場所になった。





少し進んだらまた明るくなってきた。
ところでこの道だが、廃道と考えるのがちょっと不自然なのだ。
道幅は広い。6mくらいはあろうか。
未舗装だという事を考え合わせると、ここは未成道ではないかと考える
(後述するが、後ほどそれが確信に変わる)





山火事注意の看板が立てかけられていた。





何だか、ちょっと開けた場所になった。





また「山火事用心」という、一体誰に見せるためのものかわからない大きな看板があった。
ちなみに設置者は群馬県林業公社である。





現在地はここ

地図上では三叉路になっている場所だ。





上の画像と同じ場所で右を見た。

何か標識的なものが建っていた。
解読がかなり難しいかったが、「作業道 十貫山線」ではなかろうかと思う。





その作業道らしき道の入口にはバリケードが設置されていた。





その先だ。
こちらも気になるが、これ以上の深追いはやめておこう。





三叉路分岐点にもどった。
反対側から見たのと同じなので、これを右折と言う事になる。

今はだれも利用しないカーブミラーが遠くからこちらを見ているようだった。





未成道はあと250mくらいで終点になる。

(後編につづく)

  

群馬県高崎市 厚労省施設の未成道(後編)

【15年5月4日探索・6月7日公開】


現在地はこの辺

右側の石垣施工がいかにも昭和40年代的だ。
それにしても道幅、広いな。7mほどもあるだろうか。





あれ!
実はもっと以前の場所からそうだったようで、今更ながらなのだが、道の
両側に異変がある事に気づいた。





まず右側だ。明らかに段がある!
これは言わずと知れた歩道として造られた部分だ。





そしてそれは右側だけではなく、左側も同様に1m程度の幅で歩道が用意
されていたのだった。





路肩もちゃんと施工されていた。
舗装さえすれば、普通の道だったように思うが・・・





竹薮ゾーンに入った。
ほぼほぼ、障害物競走のような印象だった。





このあたりになってくると、歩道準備の痕跡も見られなくなった。
道幅は7m程度あったようで、本当に舗装さえすれば通行できたはずな
のだ。
なぜ完成させなかったのかは予算的なものなのか、反対運動的なものか、
需要が皆無という見込みになったのか、はたまた他の理由か、不明だ。





ゲートが見え、普通の道路が見えてきた。





現在地はここ

直進方向は高崎市道のようだ。800mほど進むと県道49号線に合流
する。
左折方向は林道小塚線だ。ここから白衣大観音に行くならこの道が案内
される。





いま通ってきた道を、普通の道側から撮影した。
この画像だけ見たら、国立のぞみの園自体が廃墟であるかのような勘違
いをしてしまいそうだ。





以上、珍しい、私道の未成道でした。

(おわり)

  

神奈川県相模原市 横浜水道・三井用水取入口跡(前編)

【15年1月17日探索・6月8日公開】


現在地はこの辺

神奈川県相模原市緑区三井 県道515号の廃道区間である。
この廃道レポのこの回でも出てきた画像を使いまわししている。
その廃道レポ時に、今回初めてここを降りてみた事を言っていた。
今日、明日でその寄り道レポを記事にしようと思う。





まずは、思いっきり仮設な感じだが、この階段を下る。





階段を降りると右折し平面移動になる。





その先、下り坂になる。
一応「近代水道百選」に指定された施設(跡)への唯一の通路であるはず
なのだが、たぶん訪問者はほぼ皆無なのだろう。

そもそも1枚目の画像の場所に辿り着くのが・・・





まだ下る。
仮設通路、造りっぱなしというワケでも無いようで、床板は一部新品に差
し替えられていた。





13番・・・??

津久井湖周辺にはけっこう同様の番号の目印があるのだが、これは何の目
的のためにあるのだろうか?





水面が近づいてきた。
が、その前に石碑が鎮座していた。





本○水道創設之慶・・・かな? 横浜市が建てた事はわかった。
しかし、そもそも一文字わからんぞ。「邦」かな?

(後編につづく)

  

神奈川県相模原市 横浜水道・三井用水取入口跡(後編)

【15年1月17日探索・6月9日公開】


現在地はこの辺

石碑のところからさらに数段の階段を下り、水面がすぐそこに見える位置
まで下ってきた。





そこには何か溝のような構造物があった。
そして、何か説明板のようなものがある。見てみよう。





説明板だった。
そこにはこのような事が書かれていた。

ここは、明治20年に完成したわが国で初の近代水道である横浜水道創設
時の取入れ所跡です。建設時は道志川と相模川の合流する地点に2個の突
堤で小湾口を設け、一日最大5,720㎥の水を鉄管2条で抽水井に導き、そ
こからポンプで沈澄池に揚水していました。
沈澄池からは、隧道と導水管により自然流下で約44km離れた横浜市内
の野毛山浄水場に送水していたもので、明治30年には道志川の青山に移
されたことにより廃止されました。
またこの取入れ所跡は、昭和60年5月に日本の近代水道発祥の史跡とし
て「近代水道百選」に選定されました。 


何!!明治20年(1887)だって!!
ここにある溝は沈殿池の跡で、実際の取入口跡は通常は津久井湖の水面下
に沈んでしまっているらしい。





入ってきた側から言うと、これは左側になる。





そしてこちらが右側、取水口跡により近い側になる。





が、だんだんと藪がすごくなり・・・





4、50で行き止まりとなっていた。
この笹薮を無理やり抜ければ沼本ダムの近くに抜けられたかもしれない。

私はこれにて撤収なのだが、実際、渇水時に取水口跡を探索されていた
サイトを見つけた。
横浜水道みちをゆく(その99)





この日の私は、沈殿池に入る事くらいしか出来なかった。

128年前に造られた近代水道発祥の地、なのだが、明治30年には廃止
されているので、なんと10年しか使われなかった事になる。

(おわり)

  

千葉県松戸市 小山樋門・明治中期の煉瓦水門

【15年4月5日探索・6月10日公開】


現在地はここ
<目的地は現在地から6時の方向約30m>

千葉県松戸市小山 県道松戸野田線の角町交差点だ。
県道は左方向なのだが・・・交差点真ん中に聳え立っている街灯、邪魔に
思えたのは私だけだろうか?

左の県道を進むと・・・





ここが目的地だ。
見えない??じゃあ。。





歩道の橋が架かったので少々見づらくはなったのだろう。
坂川の小山樋門、明治31年(1898)竣功、3連の煉瓦水門である。





地元ではめがね橋と呼ばれている。
江戸川からの逆水防止のための水門であるようだ。
ちなみに土木学会の近代土木遺産ではBランクになっている。





下流側も同様なのだが、何か地味だな・・・桜が無いからかな?





現在地はここ

小ネタだったのでおまけをひとつ。

小山樋門から300mほど坂川を上流に上っていくと松戸神社があり、
その参道に架かる橋がちょっとスルーするにはもったいなかった。





潜龍橋、昭和28年6月竣功のコンクリートアーチ橋だ。
探索時には桜が満開だった事もあったのだろうが、なぜか印象に残る橋だった。

  

埼玉県寄居町 東上線線路下・気になる道(前編)

【15年4月26日探索・6月11日公開】


現在地はここ
<進行方向は1時、のち9時>

埼玉県大里郡寄居町小園 私は東武東上線沿線に住んでいるので必然的に東上線の
利用頻度は高い。
それは終点の寄居近くに於いてもある程度当てはまる。

電車の利用時、多くの場合は外を眺めている。そして怪しげな道があったりする事
に気づく。今回も、私は気になっていたが他の人は取り上げないであろう道の探索
記になる。

レポの場所は東上線の男衾~鉢形間である。
まずはそれほど怪しくない、2.6mのガードをくぐり、鉢形方面に向かう。





ガードから300mほど進んだ。
左上から道が降りてきている事に気づいた。





現在地はここ

振り返った。
確かにここから上っていき線路をくぐる道がある。
しかも・・・





どう見ても歩行者しか通れない道なのだが、線路のガード手前には高さ制限
2.5mの標識が建っていた。





車道として設計された道ではないように思う。
それなのになぜ2.5mもの標識があるのか?

ちなみに、画像が無いがこちら側にも2.5mの制限標識は建っていた。





くぐった先の道も気になっていたので確かめようと思う





道幅からすると、あるいは車の通行も考慮されていた事も否めない。
が、それにしてはちょっと勾配が急すぎる。





しかも、しまいにはこんなになっちゃうし・・・





現在地はここ

当たり前のようだが普通の道に出た。

いったん戻ろう。そして、その先の線路沿いの怪しげな道を鉢形方面に進もう。

(中編につづく)

  

埼玉県寄居町 東上線線路下・気になる道(中編)

【15年4月26日探索・6月12日公開】


現在地はここ

この先にまた線路をくぐる何かがあるようだ。





おおっ!半卵型カルバートだ。この区間は大正14年(1925)7月に開通した
のだが、大正12年開通・武蔵嵐山~小川町間大正15年開通・根古屋線
と同じ年代に出来たので、兄弟のようなイメージだ。





その内部は未舗装、水路併設型だった。





カルバートを抜けると、向こう側にあったのは、農業用のため池だった。





じゃあ次に行こうか。
再びカルバートを抜け、元の道にもどる。





現在地はここ

これから行くのが最後の場所になる。
そして、車窓から見た光景に私の妄想を織り交ぜると、一番香ばしそうな予感がし
ていた。





ここも2.5mの高さ制限標識があった。
という事は車でも、行っていい事にはなる。





ガードをくぐると道は二手に分かれる。





左はため池だ。
先ほどの半卵カルバートで行くのと反対側になるようだ。





なので、私は右に行く。

が、ちょうど東上線の8000系が通りかかったので振り返って1枚パチリ!





道と言うにはけっこう怪しい感じだが、境界柱はしっかり建っていた。





境界柱は寄居町のだった。
ここは町道という事なのかな?

(後編につづく)

  

埼玉県寄居町 東上線線路下・気になる道(後編)

【15年4月26日探索・6月13日公開】


現在地はこの辺

道は緩やかに上っている。
左の擁壁は昭和4、50年代を感じさせる施工だが、この盛ってある道の路肩の
施工は・・・



モルタルは使われていたものの丸石の石垣風の造りだった。
ここはもっと古くの年代の施工であろうか?





道路は・・・明らかに廃道だった。
引き返そうかとも思ったが、山の中ではないので遭難のリスクは低い。
結局そのまま進んでしまった。





もう完全にシングルトラック・・・というか、ほぼ獣道状態だった。
そんな状態の道だが、うっすらとした分岐があった。
まずは右方向、線路に近い方に行ってみよう。





yahoo地図には辛うじて道として描かれている。
が、その実態はこんあ感じだ。





線路の脇まで進んできた。
境界柱が設置してあるが、これは寄居町のものだ。
実はこのほかにも3本ほど近くに建っているのだが、なぜそんなに密集して設置
したのかはわからない。





現在地はここ

画像ではこの先も抜けられそうに見えるかもしれない。
が、これはちょっと無理・・・
撤収!





先ほどの分岐地点から、今度は直進(最初に来た方角からだと左折)してみよう。





2、30mくらい進んでいくと徐々に道としての明瞭さが失われていった。





この画像は谷沿いをずっと進んできて、もうあと3mでおそらくは反対側のどこか
に抜けられるという場所なのだが、ここから先にはもう10cmも進む事はできな
かった。





もはや道なのかどうかもわからないのだが、とにかくどこかに抜けないと探索が終
了させられない。
相当無理やり感があるのだが・・・





現在地はこの辺

とりあえず道路に出た。
先ほどの道の分岐地点から直線距離だと約70mしか離れていないが、その所要時
間は12分もかかっていた。

これは出て右側を見た所になる。





これは左側を見たところ、ではあるのだが、20mくらい進んだ場所、すなわち、
3枚上の画像の反対側付近になる。

(おわり)

  
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