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栃木県那須塩原市~大田原市 東野鉄道廃線跡(その3)

【15年3月14日探索・5月6日公開】


現在地はここ

公園らしい場所になった。
「ぽっぽ通り」的にはここがやすらぎの広場で、このすぐ先が青春の広場という事になっている。
なぜか、自転車に似た遊具が設置されていた。





動輪の展示もあった。
本当に動輪だけであるのと、東野鉄道に関係ある機関車のものであるのかが不明なのが気になった。

割愛するが、ちなみに青春の広場にはいくつかのオブジェがあった。





もうすぐぽっぽ通りは終わりになる。
ん!!右に何かがあるぞ!!





キロポストであるようだが、明らかに東野鉄道のものでない事がすぐにわかってしまう。
そもそも200mという半端な距離にこんな立派なキロポストは必要ないし、200mと0.2KMという表記も見かけた事がない。
第一、起点からは既に4kmを越えているのでこの200mは大田原側を起点とした「ぽっぽ通り」の距離標という事らしい。





終点のゲートが見えてきた。
ちなみに、ここは「であいの広場」らしい。





県道53号線を渡ると、廃線跡は普通の道路になっていた。

そして、大田原駅は先の建物の場所らしい。





現在地はここ

スーパーマーケットであったはずなのだが、既に閉店し、撤退していた。





テナント募集の横断幕が物悲しい。
廃駅跡に建てられたスーパーも撤退したという事は、この場所には廃の主でもいるのか??

ちなみに、テナントの問い合わせ先は東野交通だった。





そのまま2車線の道路はまっすぐに進むが、龍泉寺のところで道は90度のカーブを描く。
廃線跡は寺の参道によって遮られたが・・・





現在地はここ
<進行方向は2時>

その、反対側に来た。
車が2台停まっているが、その先は・・・





舗装が終わり・・・





俄然、廃線跡らしくなってきた。
一気にテンションが高まってきた。

(その4・最終回につづく)

  

ス、スマホが・・・

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イメージ 1

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イメージ 2

ドロイド君、瀕死・・・

いろいろ試してみて、ファクトリーリセット(強制初期化)までトライしてみたものの、どうにもならないようで、交換になるようです。

スマホは通信専用タイプ(電話機能がない)で、携帯電話は別にあるので、連絡手段がなくなったわけではありませんが、探索時もスマホが無いとGPSも使えないし、不便~

  

栃木県那須塩原市~大田原市 東野鉄道廃線跡(その4・最終回)

【15年3月14日探索・5月7日公開】


現在地はここ

昭和43年の廃線後、約半世紀が過ぎている。
にしては、路盤はかなり美しいほうだろう。

そして鬱蒼とした竹藪に見え隠れしているのは・・・





隧道坑口が見えた!





煉瓦隧道だった。
大正7年(1918)開業時からだともうすぐ100年が経つ。

さっそく近づいてみよう・・・





しかし無情にも、木の板で坑口は塞がれ、通行することはおろか内部の撮影すらままならない状況になっていた。

しかし、完全に塞がずに空気は通りぬけられるようになっている所からは、東野交通(大田原市?)に保存の意志があるようにも思える。





少しでも隙間を見つけて内部の撮影をした。
上半分は煉瓦製であるようだ。

そして、反対側もまた塞がれているように見えた。





現在地はここ

蛇尾川を渡り、反対側にやってきた。
ここから隧道の反対側坑口は見えるのか??





何とか、確認できた。

もう少し間近で見られないものかなあ・・・





この場所には蛇尾川についての説明板が建っていた。
そして、その中には・・・





昭和30年代の蛇尾橋が写っていた。
プラットトラス2連+アーチ1連の立派な橋だったようだ。

橋脚の基礎くらいはあるのかと思って探してみたが、見当たらなかった。





ちなみに線路跡は私の探索終了地点から先、この道路になるようだ。





隧道のところで探索は終了なのだが、何だか消化不良のようだ。スッキリしない。
何とか隧道反対側を間近で見たい。

ここは隧道上部の大田原神社境内から、隧道のあると思われた場所を上から覗き込んだ画像だ。
あわよくば降下できないかとも思ったが、絶対に無理!!

かくなる上は・・・





この橋を渡り、運動公園の方からの接近を試みる。





もし対岸から見てたら相当怪しい動きに見えるんだろうなあ。
そもそも道なんてないし!





現在地はここ

それでも、何とか予定の場所に着いた。
あとは、上まで登れるかどうかだが・・・





結果的には、断念した。もちろん、この場所以外も何箇所か試してみた上でだ。

画像だけ見れば、こんなところ、何で登れないんだと思うだろう。実際、登るだけなら何とかなったとも思う。しかし、帰路に、後ろ向きにこれを下るのは、相当困難だろうと考えたのだった。

結局、消化不良のような探索になってしまった。

(おわり)

  

埼玉県秩父市 県道283号下吉田狭区

【15年1月25日探索・5月8日公開】


現在地はここ
<進行方向は11時半くらい>

埼玉県秩父市下吉田 県道283号下小鹿野吉田線だ。
地図でもお判りのように、この下吉田地区では県道はまるでひしゃくの様な曲がり方をしている。
そのひしゃく形の先端に行こうとする交差点、左折する。





左折した。
県道であるはずだが、一応確認。





けっこう新し目の境界柱が建っていた。





そこから約100m、道路は何の前触れも無く、唐突に狭くなる。

7m程度の幅員があったものが、この場所でいきなり3m以下になっている。
大型車はさぞ驚くだろう。つか、大型車はこの先もしばらく狭い道が続くので、ここを通過できない車はすごすごと帰れという事か??





築堤だろうか。道路両側にはガードレールはない。ポールだけが設置されている。
自動車同士の離合は相当困難だ。軽同士ならどうにか、かな。
ガードレールを設置しないのは、圧迫感を軽減するためか、歩行者のためか、それとも・・・





築堤が終わると住宅地が復活する。
そしてこの狭隘区間は100m足らずで終了する。





現在地はここ

私はこれを直進するが、左折するとこの橋のところに出る。





この先はダイジェスト的にサクッと行く。

交差点を直進すると、県道283号線はやがて県道37号龍勢橋をくぐる。





そしてその橋のすぐ先に廃屋があった。
かつては商店だったような感じだ。





さらに1kmほど進む。
だいぶ山道モードになっている。





そのすぐ先、トラスの人道橋が架かっていた。竣功や名称は不明だ。
鋼製の上路式だが、プラットトラスというのがけっこうレアかも・・・

  

山梨県山梨市 かつての国道の廃道か?

【14年11月15日探索・15年5月9日公開】


現在地はここ

山梨県山梨市牧丘町成沢 国道140号線から分岐し、この200mくらい先でまた国道に合流している、少なくとも地図にはそう描かれている道がある。
普通は旧道と考えられそうだ。行ってみよう。





道幅は5m程度だが、この先のカルバートはそんなになさそうだ。
このカルバートの上を走るのは、県道213号の千原松ノ木橋だ。
平成10年(1998)3月に竣功している。





カルバートの先は、どう見ても使用されていない感じになっていた。





さてこの道だが、昭和37年頃の航空写真を見る限りでは、まだ隣の現道が出来ていないように見える。
つまりは国道だったという事になる。





航空写真の年代が飛びすぎていて、いつ頃、旧道落ちしたのかなど、不明点が多い。





合流点手前などは・・・
嫌がらせかと思いたくなるくらいに、舗装路だったとは思えない激藪だった。





ちょうど出たところには、農産物などの販売所があった。
廃道から人が出てきたのだから、たぶん驚かれたんだと思う。





国道の現道から廃道区間を覗き込んだ。

この道の素性だが、結局千原松ノ木橋ができる以前の旧道という事になるのだろう。
しかし橋が架けられた1998年よりは前の時代に旧道落ちしたものと思われる。
それでも何やら、ミステリアスな匂いのする廃道であった。

  
 

静岡県静岡市 布沢ダムに翻弄された道路たち(その1)

【15年3月22日探索・5月10日公開】


現在地はここ

静岡県静岡市清水区吉原 県道75号線探索中ここを左折する気になる道があった。
事前調査は地図上での妙な橋記号と、明らかに旧道があるという線形だった。

県道レポは直進したが、今回は左折する。





この、左側に進む道は奥山林道と言うらしい。





さすが静岡は至る所にみかん畑とお茶畑がある。
そして、それを運搬するためのモノラックもまた至る所に設置されている。





このレポ1枚目の分岐の場所の手前、県道75号線はしばらく1車線だったのが、この林道は2車線道なのだ。
ここに「迂回路」の看板が出ていたが、何の迂回路??





一応、「迂回路」とされたその左折方向も撮影してみた。





前方にトンネルが見えてきた。





現在地はここ

そして、左側の看板に書かれている「2.5キロ先車両行き止まり」の看板も気になる。

つか、右側の先のほうの空間は、何だよ!!





当然、進んでみる。
モノラックとブルーシートの場所の先には・・・





やはり旧隧道があるパターンだった。





池乃奥隧道、昭和14年5月竣功であった。
戦前の林道隧道なんて、相当レアモノだ。





入洞が叶わないので、カメラで内部を撮影した。





現道にもどる。
新池の奥トンネル、1998年3月竣功だ。

観光地化する予定だったのか?
林道なのに、いかにも静岡らしい富士山とお茶畑が坑口を飾っていた。

(その2へつづく)
  
 

静岡県静岡市 布沢川ダムに翻弄された道路たち(その2)

【15年3月22日探索・5月11日公開】


現在地はここ

新池の奥トンネルは延長203m、そして幅員は7mだ。両側に歩道も設置されている。
17年前という比較的最近のものとは言え、この先沿道には集落も無いようだし、林道のトンネルとしてはオーバースペック感は否めない印象だった。

ところで、トンネルの出口の先は、右側が気になる。
地図上では出口左側にも廃道っぽいものが描かれていて、実際それは旧道の廃道ではあったのだが、何だか絵にならない被写体だったので記事上からは割愛する。





こんなA型バリケードがありゃあ、オブローダーにとってはいい目印だ。
立入禁止などの文字が見えないので、普通に入っていく。





この先、右急カーブになるのだが、ガードレールの設置はなかったようだ。
デリニエーターが申し訳程度には建っており、その設置者名は静岡県となっていた。
県が管理する林道という事か?





舗装されていた道だというのがわからないほど落ち葉が積もっていた。
針葉樹がほとんどなのがまだ救いか。





何となく全体が広場的になっている場所があり、その奥にはようやくあった。





現在地はこの辺

こちら側も、坑口から内部に入れないように半分以上が塞がれていた。
ちなみにデリニエーターは県が設置者であったようだが、落石注意の標識には「清水市」と書かれていた。





もう少し近づいてみる。
向かって左側のウイング部分の状態が良くない状態だった。





現在地はここ

現トンネル出口脇から現道に戻った。が、100mも進まないうちに次の旧道分岐があった。

ちなみに、ここは地図では事前に把握できなかった。
と言うか、少なくともyahoo地図には旧道の線形が今でも描かれているようだ。





ここも廃道化された(通行可能だから廃道ではないか・・・)のは池乃奥隧道と同年代くらいであろう。





途中にはあまり生気を感じなかった建物があった。
(確認したわけではないので現役である可能性もあり)





林道だから仕方ないのだろうが、ここもガードレールは設置されていなかったようだ。
路肩には先ほどと同様な、2、3本申し訳のデリニエーターが建っており、その設置者はまた静岡県になっていた。





いったん現道に合流し進んでいく。

50mくらい先に橋が架かっているのが見えてきた。

(その3へつづく)

  

静岡県静岡市 布沢川ダムに翻弄された道路たち(その3)

【15年3月22日探索・5月12日公開】


現在地はここ

橋が架かっていて、左に旧道らしい分岐が見えた。
ここは地図にも描かれていたので、予定通りの進入になる。
しかも、立入禁止とはどこにも書かれていないところが気分的に嬉しかった。





というワケで旧道に入る。





前方に見えるのはモノラック車両だ。
右にはけっこう朽ちてきている橋が見えた。
先ほどまでの新旧道の関係からすると、まだそんなに旧道になってから経っていない
はずだが・・・





谷側から橋を覗き込んでみた。
鉄パイプで補強してあるようで、けっこうくたびれた感が強い橋だ。
この時点で名前は不明だが、こういう場合の多数から推測すれば、現橋と同名か「新」
が無いのがこの橋の名前だろう。





同じ場所で振り返ってみた。
左端に写っているのは2枚上の画像にも写っているモノラックだ。

この、四角く囲ったあたりが何か怪しげだ。





なので近づいてみた。

・・・これは、何だったのだろうか?普通に言えば橋なのだが、この広さの鋼製の橋
がなぜ必要だったのだろうか??





今になって思えばこの場所、もうちょっと深入りしても良かったような気がした。
しかし、割りとあっさり、そのまま旧道を進行していた。

まあこれだけでも充分な廃道の光景になるとは思うが。





もともと100m程度の廃道なので、反対側に着くのにはそれほどの時間は要さない。





現道に復帰してから振り返っての撮影だ。

さて、気になっていたこの橋の名前とか竣功時期は・・・





正直、ノーマークだった。
なので、この橋の名を見たとき、少なからずの衝撃だった。

それは、探索計画ルート選定を地図を見て決めた事へのオブの勘に対する儲かった感と、
未成ダム絡みなのに机上調査が甘かった自分への悔しさと、そんな複雑な思いからくる
衝撃だった。
先ほどの旧橋が現橋と同名であろうはずがない事もまた、そんな思いに追い討ちがかか
った。

帰宅後に布沢川ダムについて少し調べてみた。
事業は1993年より実施され、本来の計画なら、もう少し上流に堤高59.5m、堤
頂長155mの重力式コンクリートダムが2016年には完成していたはずだった。
目的は洪水調節、河川維持用水、上水道確保のためだったが、計画変更により2012
年11月に中止が決定した。
が、実際はそれ以前から工事はストップしていた。
参考資料として静岡県HP内にこの画像Image may be NSFW.
Clik here to view.
ダム計画概要図
があった。
(注:ここまでこの道路を奥山林道と呼んできましたが、この画像には市道6549号線と書かれています。県のHPの資料なので市道と呼ぶ事にします)

以上が概略だが、この1号橋は平成15年(2003)3月竣功である。





となれば、その約200m先にある橋の名は簡単に想像がつく。

(その4へつづく)

  

静岡県静岡市 布沢川ダムに翻弄された道路たち(その4)

【15年3月22日探索・5月13日公開】


現在地はここ

先ほどの橋から200m弱で、次の橋が架かっており、橋の手前の左側にする旧道があった。
私はその旧道に入ったあたりでこの画像を撮影した。

地図をクリックした方は、地図上では旧道じゃないじゃないか!と思われたかもしれないが、yahoo地図にはここの橋部分も旧道のまま描かれていた。





旧道を進む。
その先は適度に荒れてきていた。





その先には洗い越しがあった。
左側、何かが設置してあるようだが・・・





梯子だった。
私を誘っているような気もしたが、ワナかもしれない。
今日はその誘いには乗らないでスルーしよう。





洗い越しの先は道路状況が格段に悪くなった。





現橋が見えてきても一向に改善されなかった。





本来ならこの5m先で合流している場所なのだが、合流地点は2m弱の高低差があったのだ。
なので、無理せずに引き返す。





もう名前はわかっているが、銘版をチェックしよう。
予想通りの布沢川ダム2号橋だった。

ただこの橋、竣功時期は1号橋よりも5ヶ月早く平成14年(2002)10月となっていた。





ここで、ダム本体の地点を遠望してみる。





さて、先に進もう。

しかし、この先の様子がおかしい。
バリケードやガードレールが設置されているが、どうも工事がされているような雰囲気を感じない。

(その5・最終回につづく)

  

静岡県静岡市 布沢川ダムに翻弄された道路たち(その5・最終回)

【15年3月22日探索・5月14日公開】


現在地はここ

この状況、私のヘタな説明など不要だろう。
地図を見た印象は「どうも完成していない橋」だったが、まさにその通りだった。
正確には橋本体は完成したように見えるが。

ところで、ここには「車両の転回場」を造っていると書かれているが、どれの事だろうか?





ガードレールの先の画像も撮影した。





供用されていない橋の下を通り、反対側に向かう。





元々の林道スペックはこんな感じだったんだと思う。
これでは乗用車同士なら離合できても、ダム工事用のダンプなどは通行するだけでも大変だろう。

この先で、もう一度橋をくぐる。





現在地はここ

反対側にやってきた。





コンクリ舗装になっている市道6549号線だが、その先はまだもう少しだけ続くようだ。





先ほどの場所からでも確認する事は出来たのだが、ここが工事中止地点であるようだ。
この橋も名称は99.9%予想はついているが、竣功時期を示す銘版が付けられたかどうかが焦点になった。





まさに工事中止地点である。右側、橋の先は切り開く予定だったようだ。
そしてすぐ先には「4号橋」が掛けられるはずだった。





よいしょっと・・・
崖と橋をよじ登り、橋の端までたどりついた。

銘版だが、付けられているようだ。





名前は予想通り!!





注目の橋の竣功時期だが、平成22年(2010)5月だった。
つまりは、正式に建設中止になる2年以上前から、ここの工事は止まっていた事になる。

ところで2号橋、1号橋の竣功から7年以上経過しているが、なぜこんなに開いたのだろうか??
他にも気になった点、この先工事は何も進んでいなかったのか??
そのあたりも調べてみようか。いずれ再訪したい。

(おわり)

  

群馬県高崎市 碓氷川に架かる大きな流れ橋・中乗橋

【15年5月4日探索・5月15日公開】


現在地はここ

群馬県高崎市乗附町 事前にはチェックしていなかった橋だが、この北西側の碓氷川に架かる橋が記号的に引っ掛かっていた。
どうもアクセス路の線形が気になるし、よく見ると人道橋であるようだ。

そんなワケで、ここを左折する。





左折した先だ。
これは、何だか期待が持てそうな雰囲気だ。





現在地はここ

このカーブの先には・・・





なんと、木橋だった。
しかもこの橋、どこかで見たような橋だな・・・

あ!同じ高崎市内の佐野橋に似ているんだ。





上流を眺める。
なんだか長閑だな・・・





こちらは下流だ。
この先2km強で烏川と合流する。





車止めがあるように、四輪の自動車は完全シャットアウトである。





橋を下から見てみよう。
やはり、ここもそうだった。





8本ある橋脚の上に、橋げたが乗っかっている。
わかりやすく言えば、大水のあった際には流されてしまう事が前提の橋なのだ。





橋の全景だ。
現地では名前がわからなかったが、帰宅後に調べたら「中乗橋」という名称のようだ。





自動車はもちろんダメなのだが、この標識、何か微妙だ。
土手の上の道の標識なのか、橋への情報なのか??

もし後者だとすれば、小型特殊自動車なら通行できる事になる。

  
  

埼玉県東松山市 大正の煉瓦樋管・小剣樋管

【15年5月6日探索・5月16日公開】


現在地はここ
<3時の方向を見て撮影>

埼玉県東松山市正代 私はたまたまこの運動公園内のトイレを利用しようと思いここに来ていた。
トイレはすぐ右側にあるのだが、そんな事よりも先のほうに気になる構造物がある事に気づいた。





近づいてみた。

やはりそこにあったのは煉瓦製の樋管だった。





小剣樋管という名前らしい。正代地区の農業用水を都幾川に流すためのものであるようだ。
煉瓦造りの樋管がこのあたりに多いのは知っていたが、この日、ここへの訪問予定はなく、ノーマークだった。





竣功時期が刻まれているのだが、肝心の年号が削られていた。
とりあえず、明治中期以降で「○○三年五月竣功」という事で明治と平成は除外した。
あとは「大正」か「昭和」なのだが・・・

で、帰宅後に調べたら「大正」であるらしい事がわかった。





反対側にも行ってみよう。
築堤上部にはウインチのモーターが設置されていた。
当然、最近の設置だろう。





ウインチでこの扉の操作をしているものと思われる。





樋管の隣に馬頭観音があった。
「明治十丁丑年第十一月建」と読めた。

正確な事はわからなかったが、歴史ある道なのか。
この場所に馬頭観音があったという事は、かつてこのあたりに渡しでもあったのだろうか?

  

神奈川県横須賀市 猿島訪問記(その1)

【15年2月7日探索・5月17日公開】


現在地はここ

神奈川県横須賀市稲岡町 三笠公園だ。
今日はこの戦艦三笠の隣から出ている船に乗り猿島に向かおうと思う。

猿島は東京湾内にある唯一の自然島であり、無人島である。
建長5年(1253)5月に日蓮上人が房総から鎌倉へ渡る途中嵐にあい、絶体絶命となった時にどこからか現れた白猿に導かれ命拾いしたのが猿島の名前の由来だそうだ。

東京湾の要衝にある島なので、旧陸軍・海軍が要塞として利用していたという歴史があり、その跡がいろいろと残っている。
私自身、猿島へは過去4回行っていたが、もう13年くらい行っていなかった。
久しぶりに行ってみよう。





往復1300円の乗船券を購入し(この4月からは入園料として200円が横須賀市により上乗せ徴収されているらしい)船に乗り込む。
シーフレンドゼロ号は定員204名の船だ。
以前来たときにはもっと小さい船だったような・・・





ヘリオス号は三笠公園で待機なので、私は単独行動だ。

わずか10分程度の船旅だが、さて、どこに位置取ろうか。
これは2階の甲板部になる。





2月というオフシーズンであるが、ざっと100名くらいは乗船しているようだ。

とりあえず1階を見てみよう。
前半分は船室となっている。
ちなみに階段の裏側がトイレだったのだが、どのようなトイレだったのか見なかった事を少し後悔した。





ズームで猿島全景をパチリ。
(ズームにすると右上の黒いしみの様なものが写ってしまうがご容赦頂きたい)





これもズーム撮影だ。
立入禁止エリアのはずの場所だが、何か気になる構造物がある。行けないけど。





ここもそうだ。





猿島桟橋近くの崖にはウミウのコロニーがあった。





現在地はここ

猿島桟橋に着いた。
トラスの長い桟橋も以前はなかった。
というか、以前は砂浜の反対側に桟橋があった記憶がある。





乗船予定の帰りの船の出発時刻まで、あと1時間3分だ。
かなり早足での探索になる。





売店と管理事務所の建物を横目に見ながら早足で進む。

これは発電所のようだ。
建物は年季が入っているように見えるが、現役施設だ。





お!

昔は苔むした煉瓦畳か石畳の道だった記憶があり、けっこう歩きにくかった。
それが以前よりも相当歩きやすくなっていた。

(その2へつづく)

  

神奈川県横須賀市 猿島訪問記(その2)

【15年2月7日探索・5月18日公開】


現在地はここ

パンフレットとしてもらった地図も載せてみた。
本日の記事は3番の番号付近になる。





それがこのあたりになる。
入島自体が有料になる(探索時・4月1日から有料・200円)直前だった事もあるだろうが、いやに小奇麗になっているな。
以前のままの方が趣味者的には良かったのだが、観光地としてはまあ順当か。

ちなみに、右側にある煉瓦構造物は兵舎跡になる。





これは10mくらい進み、振り返った画像になるが、切り通しの深さがけっこうすごい。
しかもこれは、明治中期に露天掘りで掘ったものであるようだ。



要所要所に説明版が設置されている。
私の記事ではあまり説明版は載せないのだが、まあ全体の説明くらいはいいか。





ここは・・・何だった場所だろう??





すぐ隣にも穴があった。
ここは弾薬庫跡らしい。





せっかくだから中を覗いてみた。
覗いてみて何かあるなんて都合よくはなっていない。





ウッドデッキの遊歩道は快適だ。

階段が見えるがそのそばには・・・





こんな怪しい穴がそのまま放置されていた。

そう言えば、だが、昭和50年頃には確かこういった穴の中に入れたような記憶が・・・





その先にも弾薬庫跡があった。

フランス積みの構造物で現存している明治中期の製作というのは相当レアなのだそうで、全国でも4例(それ以前の製作品も含め)しか確認されていない。





また覗いてみた。

・・・そうそう、確かこの穴にも入ったような記憶がある。





以前はもっと鬱蒼としていた覚えがあるが、今はけっこう明るい。
左の構造物は兵舎跡だろうか。





そして猿島最大の構造物である幹道のトンネルが見えてきた。
後付けで「愛のトンネル」というちょっとやっちゃった感を拭えないネーミングも付いている。

(その3へつづく)

  

神奈川県横須賀市 猿島訪問記(その3)

【15年2月7日探索・5月19日公開】


現在地はここ

島の中で一番長い隧道、最近「愛のトンネル」と名づけられた(愛称?)煉瓦隧道だ。
明治中期のフランス積み構造物だ。





その内部だ。
途中いくつかの扉があり、いくつかの地下室があり、弾薬庫には利用されていたそうだが、その他は
解明されていない。





この階段は指令所への通路だったそうだが、ここから先には行けない。





反対側の出口の先で道は二手に分かれる。
まずはその左手に進んでいく。





左側の入口は何だろう。兵舎か?





ピンボケになってしまったがご容赦頂きたい。
反対側出口の手前で坑内が広くなった。



ここにも何かの入口があった。





短い隧道も抜けると、また道が二手に分かれる。
そこもまた左に向かうと、砲台跡が2箇所ある。
猿島は江戸時代、明治時代、昭和の太平洋戦争時と、3回砲台が設置されたと説明版にあったが、
これは太平洋戦争の時のものであるそうだ。





現在地はここ

この先、日蓮洞窟があるらしいので行ってみよう。





何も説明版などがなかったのだが、これがそうか?
なぜ「日蓮」なのだろうか?
パンフレットの説明では縄文時代の土器も発見された洞窟らしい。





他になにかあるのか、階段終点の先にも行ってみた。





無理すればこの先にも行けそうではあったが、収穫はあまり期待できなかったのでここは撤収
しよう。
かなりの標高差を降りてきた割には何もなかったな。さっきの階段、また登るのか~

(その4へつづく)

  

神奈川県横須賀市 猿島訪問記(その4・最終回)

【15年2月7日探索・5月20日公開】


現在地はこの辺

3分ほどかけ階段を上がり、砲台跡付近にもどってきた。
ここは、現在では行けないようになっているが、この切通しはどこへ行くための通路だったのだろうか?





元々、撮影した画像が多かったのでもう1回連載するつもりだったが、何だか間延び感が漂うので、ここから先はダイジェスト的にして、今回で終了させる事にした。

こんな看板が今でも建っている。
実際不発弾なんか見つけたら相当パニックになるだろうな。





房総半島の見えるここは、幕末の台場跡だそうだ。





先ほどの煉瓦隧道のところまで戻ってきた。





今度は、行っていない、こっちに行ってみよう。
人が覗いている、その後ろ側にも砲台があったそうだ。
 





そしてこの穴の中もまた兵舎だったようだ。
ここに何人くらい入っていたのだろう?





石造りの隧道を抜け、今度は山道のような道を進む。





現在地はここ

隧道のちょうど真上になるこの場所は元々海軍の司令所だった。
現在は展望台になっているはずだが・・・





老朽化のためか、上には上がれないようになっていた。
復活する事はあるのだろうか?





ここ、初代仮面ライダーのショッカーの基地だったそうだが・・・一応見ていたはずなのだが・・・
よく覚えていないなあ。





1時間の探索だったが、帰り便出航の5分前には桟橋手前にもどってきた。
予定通り今来た船に乗れそうだ。





最後に気になった看板を載せておこう。

「最終便(この日は16時30分)に乗り遅れた方へ」という看板だ。もしもの場合に
は切実で、救いの神のようなキモチで半泣きでこの看板を見た方も居られよう。
特別便を呼ばないと一晩無人島で過ごす事になるわけだが、特別便はどのような船で、
別途料金はいかほどなのだろうか?ちょっと気になるが、自分で確かめようとは思わ
なかった。

(おわり)

  

千葉県松戸市 狭い交互通行カルバート・幸谷第2ガード

【15年4月5日探索・5月21日公開】


現在地はここ

千葉県松戸市新松戸 JR常磐線と武蔵野線の乗換駅・新松戸から程近い場所だ。
この路面表示にただならぬ「匂い」を直感的に感じた。





信号機と高さ制限バーがある方に近づいてみよう。

看板が建っており、そこには黄色文字で書いた文言が書かれていた。
道路管理者である松戸市が歩行者・自転車に対し迂回を「お願い」していた。

この地下道の通過の前に、赤矢印をつけた橋に行ってみる。





車がけっこう間近に見えることも、この狭さも、何か妙な迫力だ。





では、地下道へと歩を進めていこう。
歩道、狭いな・・・でも、ジモティはけっこう利用しているようだ。
実際、南側約350m地点か、北側約200m地点には常磐線を越える構造物があるのだが、迂回するには遠いのだろう。





2枚上の画像の、車が写っていた場所だ。
この扉の向こう側には何があるのだろうか?
そして、この扉への出入り時、どのように安全を確保するのだろうか?





この地下道、常磐線第2幸谷ガードという名が付いていた。

それにしてもこの歩道、狭いな。幅60cmくらいしかない。
まあ、それでも車道の路面よりもかさ上げされ、30cmくらい高い場所になっているので恐怖感はあまりない。





でも、途中、ずれてるし!!





よく見たら歩道の構造は相当簡易的だった。
コンクリートのU字溝を橋脚として利用し、コンクリート板を敷き詰めた、橋のような構造だった。





ともあれ反対側に抜けた。





こちら側の高さ制限バーの先は急カーブになっている。





5m先に進み、振り返った。
交互通行の信号が変わる合間なので車だ見えないが、けっこう交通量は多い。
周囲に車が通れ、常磐線を跨ぐ場所がないためだろう。

ちゃんとは調べていないが、竣功時期は常磐線複々線(昭和46年)の前くらいと推測する。






現在地はここ
<12時の方を見て撮影>

こちら側の様子も見てみよう。
一方通行の標識がある下に、よくわからない図がある。見てみよう。





???

いまいち、よくわからない。





なるほど・・・

わかったような、わからないような(笑)。





信号が変わったら一斉に車が飛び出していった。

こんな狭いが、けっこう地域には重要なカルバートだった。

  

埼玉県小川町 竹沢駅周辺の特徴的な橋たち(前編)

【15年4月26日探索・5月22日公開】


現在地はここ
<3時方向を見て撮影>

埼玉県比企郡小川町木部 町道が兜川を渡る橋だ。
この橋(私がいる橋)は外和戸橋といい昭和53年竣功だ。

いきなり小ネタ感満載だが、何気にこの場所って、けっこうレアかも・・・

それは鉄道が2路線(上が東武東上線、下がJR八高線)、同じ川を渡りつつその2路線も
また立体交差しており、さらに線路の両側に道路橋が2本架かっているという光景だった。





八高線を挟んだコンクリート橋に移動した。
この橋もけっこう年季が入っていそうだが、情報はなかった。





その代わり、にはならないのだが、コンクリ橋の横には水管橋も架かっていた。





東上線第二兜川橋梁を反対側から写した。
大正13年製造の銘版がガーダー部分に貼ってあった。

この区間は大正14年開通なので開業時からの橋という事になる。

橋脚はコンクリート製のようだが、どうもこの形状、煉瓦製のものと同じ様な造りに見える。
元は煉瓦製で、後年になってから補修されたのかもしれない。





現在地はここ

こんどは勝呂地区、JR竹沢駅の裏手にやってきた。
そしてこの先に架かっている跨線橋が気になった。





同じ場所で振り返ると、まるで鉄道模型のジオラマのような雰囲気を持っている竹沢駅
構内が見て取れた。





さて、橋にもどる。
狭いな、人道橋。水路橋とほとんど変わらないな・・・





そして、親柱にあたる位置には古レールが使用されていた。
レールの刻印も見てみたが、解読できなかった。





橋全景だ。





一応、下からも見てみた。古レールは見当たらない。

でもこれ、一応レール使用ってことでいいんだよな・・・

ちなみに、いつごろ架けられたか、だが、過去の航空写真では判定できず、従って
現段階では不明であった。

(後編につづく)

  

埼玉県小川町 竹沢駅周辺の特徴的な橋たち(後編)

【15年4月26日探索・5月23日公開】


現在地はここ

今度は駅の南側、国道254号線の旧道にやってきた。
ちょうどこの兜川を渡る橋が目に付いた。





近づいてみた。
鋼製の橋だが、床板も鉄板張りとは、けっこう珍しいかも。





しかもこの橋、何気にトラス橋だったりする。





最後にやってきたのは、国道旧道から右側に入っていく場所に架かる橋なのだが・・・





現在地はここ
<6時の方角を見て撮影>

どうも木の橋に見える。





もう少し近づいたのだが、この先に進むのがこっからは難しかった。





そこで、下流側に架かる橋を越えていく。





この橋、流れ橋だった。





対岸に着いたら、右側の上流方向に進んだ。

そしたら、この、道なのかどうかも不明のような場所に何かがあった。





小川町の境界柱だった。
という事はこれでも町道?





さあ、目的の橋が再び見えてきた。





やはり橋は木製だった。





では、さっそく渡ろう。
渡った先が個人宅という事もなさそうだ。





その先にも、二輪車以下対応の道が延びていた。





橋は下から、のセオリー通りの事をしてみた。

断定は出来ないが、意外と、思っていたよりも近代的な造りに見えた。

(おわり)

  

静岡県富士宮市 国道139号根原地区の旧道

【14年12月28日探索・15年5月24日公開】


現在地はここ

静岡県富士宮市根原 国道139号線の根原集落内の旧道から現道合流地点を写している。
しかし、その現道の向こう側に怪しげな空間があるのがおわかりだろうか?
今昔マップでは国道にまとわりつく下側のS字になっている部分である。





現道を横切り、さっそく旧道に入った。道は左方向にカーブする。





舗装がされていないようだが、はがされたのだろうか?
道幅は充分広い。





その先だ。
左に何かの境界柱があるようだが・・・





「水路」という文字が刻まれていた。
道路のものでない事はわかったが、この下に水路があるという事?





道幅は国道に恥じない。
舗装がされていないが。





旧道は国道の現道を再び横切る。
道を渡った先も、そこだけガードパイプと柵の設置がない。
旧道はまだ死んでないという事かな?

ちなみに、古い航空写真で確認した限り、昭和32年(1957)にはまだ現道が出来ていないが、昭和45年(1970)には現道の線形があったので、その間に旧道落ちした事になる。





あんまり利用されているようには見えないんだが・・・





道幅は相変わらず・・・というか、この画像だけ見ると広場のようだ。





途中からは何か使用されているっぽい状況になった。





左の方から作業道のような道が合流してくると、現道再合流手前だけは舗装されていた。





ほぼ同じ場所からは富士山がよく見えた。


  
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