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東京都北区 陸軍兵器補給廠専用線跡(前編)

【14年3月2日探索・9月22日公開】


現在地はここ

東京都北区赤羽台 赤羽界隈はかつて軍都で、いくつもの日本軍の施設があった。
施設としてはそのひとつになる。明治39年(1906)陸軍は現在の味の素フィールド西が丘の場所に兵器支廠を造り、明治41年には赤羽駅の北側より分岐する専用線を敷設した。

その分岐地点がここから少し遠望する東北本線だったようだ。
そして、この八幡神社参道もかつては線路だった場所だそうだ。





東北・山形・秋田・上越・北陸新幹線の高架をくぐる。
道路を挟んだ先に廃線跡の道が延びている。





まあ、普通の道路になったわけだが、今でも専用線の名残がある。





「エ」マークこそないが、国鉄の境界柱だ。





現在地はここ

そして、ここから先は区立赤羽緑道公園になる。





線路は残っていないが、線路をモチーフにした模様のタイルが線路だった事を物語っている。





跨道橋があった。
一瞬、当時のものかと期待したが、そんなはずはなかった。





一応雰囲気はあるけどね。





その先には鳥のモチーフがあった。





おおっ!
私の好きなイカルだ!
ここにも来るのかな??





現在地はこの辺

基本、線路模様の遊歩道を黙々と歩いているだけなんだが、ちょっとでも変わった空間があると寄り道をしたくなる。





画像でどこまで伝わるのか?という疑問があるが、ここは斜めになった別の階段が2箇所あるという、けっこうレアな場所だったのだ。





遊歩道に戻る。
進んでいくと駅のプラットホームを彷彿とさせる構造物があった。
しかし、この専用線には途中駅はなかったはずだし、そもそも貨物専用線だったはずで、このようなプラットホームはなかった可能性が高い。
遊歩道化計画に、筋金入りの鉄っちゃんは入っていなかったと見た!

(後編につづく)

  

東京都北区 陸軍兵器補給廠専用線跡(後編)

【14年3月2日探索・9月23日公開】


現在地はこの辺

実際の線路幅よりも明らかに広い幅の模様をなぞりながら進む。
そう言えばこの専用線が明治41年に敷設されたのは前編で述べたが、いつまで使われていたのかには触れていなかった。
敗戦後は連合軍に接収され、昭和27年まで使用されていたようだ。
ただ、補給廠の返還は昭和46年(1971)になるので、その間は放置されていた事になる。





広くなり線路模様が消えた。ここにかつて何かがあったのかは不明だ。
この先で特例都道445号常盤台赤羽線を横断する。





都道を横断した先ではまた線路模様が復活していた。

う~ん・・・
短い区間でもいいから当時の線路がそのまま残っていたほうが良かったのでは??





明らかに現役時代のものではない構造物があった。
色こそ違うがまるでプラレールの鉄橋だな・・・





実際、堀でも何でもない地形の場所だ。
一応橋の構造としてはポニートラスのハウトラス、中央部のみダブルトラスをイメージしているようだが・・・
やっぱり遊歩道化プロジェクトには鉄道マニアは入っていなかったと強く思う。





線路模様の遊歩道は終わるようだ。





現在地はここ

このあたりからしばらくは痕跡が一番乏しい感じになる。





現在地はここ

なので、一気に場所が飛ぶ。

ここ、道路が廃線跡・・・ではなく、どうも左の民家のラインが廃線跡になるようだ。





80mくらい進んだ。
印刷会社の建物が何かつぎはぎのような模様になっている。
線路跡は建物の手前のラインになるようだ。





壁の左が線路跡になるはずだが、何も見えない。

ところでこの右側の家、何かの実験中か??





この狭い道が線路跡か??





現在地はここ

狭い道の先は、ゴール地点になる。





味の素フィールド西が丘だ。
ここにかつては兵器や火薬が大量に保管されていたと考えてみる・・・

が、正直、あまり想像がつかなかった・・・

(おわり)

  

埼玉県戸田市 6本の道が交わる「五差路」交差点

【14年8月24日探索・9月24日公開】


現在地はここ

埼玉県戸田市本町 JR東北系・上越系新幹線と埼京線の下をくぐる。
その先にある交差点が今回の話の主役になる。





ちなみに、上の画像の道路反対側に設置されているバス停名は「五差路」だ。





1枚目画像から5mだけ前に進む。
ここでこの交差点に入っている道路を数えてみよう。
1は私が走ってきた道で、時計回りに数えると道路は6本ある。

ん???





あれ、おかしいな・・・

道路反対側からもう1回数えなおしてみる。1、2・・・

やはり6本ある!
ちなみに3と6は埼玉県道236号新倉蕨線である。

・・・あ、そうか。バス停の五差路は違う場所を示していたのかも。。





最初に地図をご覧頂いた方にはバレバレだったのだが、この交差点名は「五差路」である。
餃子チェーン店の店名もまた五差路だった。





県道には「五差路通り」の愛称までついていた。

これはいったい・・・
調べたらこちらのサイトにその理由が書いていった。
要するに元々あった五差路に昭和35年の区画整理事業の結果6差路になったという事だ。
それにしても交差点の名前で混乱する人もいると思う。





個人経営っぽい焼きトン屋があるが(共食いっぽい看板だがあえてスルーする)、こちらの名も「ごさろ」である。
6差路になったのは昭和40年代であるようで、その時点からでも40年かそれ以上経過しているのだが、古くからの呼び名である「五差路」の方が愛着があるという事なのだろうか?
「5差路という名の6差路」というような自虐的に売り出そうというひねくれモノはいないのかな??

  

神奈川県山北町 山北発電所の煉瓦水路橋

【14年8月3日探索・9月25日公開】


現在地はここ

地図を見ていて気になる場所があった。神奈川県足柄上郡山北町山北の谷に描かれた川のような記号・・・
立地的には何があるのかは簡単に推測がついたのだが、そこへ行く道はあるのだろうか?

探索前には何も調べなかったが、帰宅後に調べてみたところここは既出ネタだった。が、とりあえず記事にはしてみよう。

町道脇から下に下りる階段がある。
とくに立入禁止等の文言も見当たらなかった。





そこには安心できそうな階段が設置されていた。





鉄製階段は1スパンだけで、その先は昔ながらの簡易舗装階段だった。





そんな階段を下りていくとほどなく水路が見えてくる。





山北発電所鍛冶屋敷沢水路橋(正式名?)だ。
煉瓦の坑門がすごいな・・・





水路橋上面と同じレベルに降りてきた。

この水路橋だが、大正3年(ごろ)に出来上がっている。
ちょうど100年前の構造物である。





さらに下に行く階段があった。





水路橋は1スパンながら優美な煉瓦製アーチだった。





煉瓦アーチの下部だ。
基礎部分がコンクリになっているが、最初からこうだったのではなく、どこかのタイミングで(関東大震災?)破損し修理されたと思われる。





そんな水路橋だが、その取水口はこの橋(嵐橋)のすぐ近くだ。

ところでこの橋、雰囲気は吊橋だが、斜張橋だ。





酒匂川のこの場所で取水して、煉瓦水路橋、安戸橋の上を通り、山北発電所に達する。

  

山梨県山梨市 三塩林鉄跡・第2次探索(その1)

【14年9月14日探索・9月26日公開】


現在地はここ

山梨県山梨市三富川浦 2ヵ月半ぶりに、ここへもどってきた。
前回ゲリラ豪雨などの要因もありこの釜口橋までで探索を打ち切ったので、今日はこれから、広瀬ダム下までの、湖底に沈む手前までを探索しようと思う。

川を渡ったら、右に進路をとる。





最初はまあ何てことはない道だったが・・・





現在地はここ

ほどなく林鉄跡の歩道が現れた。
ここを左側に進むのだが・・・





落石のため通行禁止の看板が建っていて。





その5m先にはバリケードが設置されていた。

う~ん、どうしよう・・・





じゃ、ちょっとだけ覗いてみよう。

落石と同じくらい路肩にも注意しなければならない。





右カーブが見えてきた。

結論から言うとこのカーブの先からは通行できるのだが、私は一旦ここで撤収したのだった。





迂回する。
平成10年架橋の三嶽橋を渡る。





現在地はここ

またすぐに笛吹川を渡るのだが・・・

吊橋だ!!




青笹橋、昭和44年架橋だ。

橋の入り口には車止めが設置されていたので、歩行者用の橋という事で間違いないだろう。
・・・で、橋の先のほうにあるのは何だろう?





近づいてみた・・・どうもベンチらしい。
吊橋の真ん中にベンチがあるという、私は初めて見るタイプの橋だった。





せっかくだからこの位置での上流側の景色でも・・・

(その2へつづく)

  

山梨県山梨市 三塩林鉄跡・第2次探索(その2)

【14年9月14日探索・9月27日公開】


現在地はここ

吊橋・青笹橋を渡り、また笛吹川の右岸になった。
路面は少し急な坂であるが、林鉄跡である道への合流を急いでいるためであろうか?





6、70m進み振り返った。
この芝生の道こそが林鉄跡で間違いなかろう。
先ほど通行止めになっていたので、少したどってみよう。





路面にはその面影を感じないが、石垣の擁壁がイイ雰囲気。





その先で反対側と同じ通行禁止の看板が見つかった。
これにて回れ、右!
再び進行方向へと進む。





ここは橋が架かっている場所だが、林鉄橋らしい遺構は発見できなかった。






道路全体に屋根がかかるなんて珍しいな。
この近辺では唯一の商店がある場所だ。





現在地はこの辺

その少し先を走行中、左側に気になるものを見つけた。






縦方向に穴が2箇所・・・は階段、というかステップのようなものだった。
3段めは少し広い平らなスペースがある。
その上には石仏があるようだが・・・





よく見たら疱瘡社と赤い字で書かれていた。
疱瘡神を祭っている社か?
それにしても、この立地・・・

(その3へつづく)

  

山梨県山梨市 三塩林鉄跡・第2次探索(その3)

【14年9月14日探索・9月28日公開】


現在地はこの辺

落石注意、林鉄跡の道路だから元々そんな立地だし仕方ないのだろう。





にしても多いな。今度は標識・・・になるのかな?





橋が架かっていた。
赤の浦橋、昭和48年架橋の橋なのだが・・・





どうもアーチ橋っぽいのだが、木が生い茂りすぎてよくわからなかった。
林鉄時代の遺構も眠っている可能性はあるが、この状態では発見など無理だろう。





子宝に恵まれるといわれる大嶽山那賀都神社入り口脇を登っていく。
林鉄としてはちょっとありえない勾配だから、スイッチバックか迂回して標高を稼いでいたのだろう。





その先も、そう言われればという感じの道を進む。





また落石注意看板があった。
ここまで集落と集落の間にはほとんど落石注意看板があったような・・・





笛吹川右岸としては最後の集落、芹沢集落に入った。





現在地はここ
<進行方向は2時>

何か石像があった。
笛吹権三郎、落人の子であり、横笛の名人であった。豪雨で母を失いその母を笛を吹きながら捜していた。ある時母に呼ばれ権三郎も川に身を投じたという悲しい伝説があり、笛吹川の名の元になった人物でもある。

探索としては注目は石像ではなく、直進する細い道になる。もちろんそれを進む。





石垣復活!ようやくそれらしくなってきた。





少し進んだ右側には、林鉄と関係があったのかどうかは不明ながら、それっぽい小屋があった。





現在地はここ

この先、人家なし!の象徴のようなゲートが再び現れた。
地図に描かれている道はあと約500mだが、ダム直下までは地図読みで2kmほどある。
どうせここに戻ってくるのと、この先は単独の方が行動しやすそうな気がしたのでヘリオス号はここで待機させる事にした。
この先、いったいどこまで行けるのだろうか?

(その4へつづく)

  

山梨県山梨市 三塩林鉄跡・第2次探索(その4)

【14年9月14日探索・9月29日公開】


現在地はこの辺

路肩が割りと新しい施工になっているようだ。
この谷は何度か崩れたのか、あるいはゲートからまだ間もない場所なので強化したためか?






おそらくな簡易水道なのだろう。
簡易なワイヤーの吊橋で対岸へと渡っていた。





ん!!

何か巨大な岩の石垣があった!





それはこの付近一帯であり、どうも石垣ではないように思えてきた。





先がいやに広くなってきた。





少し進み、斜めに振り返るとこんな感じだ。
どうも上に行く道があるようだ。
となると、ここはかつての採石場??





状況から推測をすれば、このやたら広い平場が石の積み込み場だったと考えるのが可能性が高い。
ただ、私が探索用に用意した古い地形図(いずれも5万分の1 昭和27年応急修正版御嶽昇仙峡、昭和33年資料修正版丹波、昭和27年応急修正版三峰)には積み込み場を思わせるような記号は描かれていなかった。





現在地はたぶんここ

私が進んできた道は黄色矢印だ。

ここ、状況的には砕石場もあったかもしれない。





その先も石垣に見えた部分は道路の路肩であった。



20mほど進み振り返った。





謎だな・・・

まあいい、先に進もう。


(その5へつづく)

  

山梨県山梨市 三塩林鉄跡・第2次探索(その5)

【14年9月14日探索・9月30日公開】


現在地はたぶんこの辺

石材積込み場があったであろうエリアを過ぎると、また林鉄単線幅の山道にもどった。





何やら杭が打ち込まれている。何だろう?





筆界基準と書かれた杭だった。
私有地の境界なのか、国土調査に必要な杭のどちらかであろうが、おそらく後者だろうな。





左はすごい岩場だ。
まあ、採石場(たぶん)があった位だからこんな光景は不思議ではないのだが。





直線区間に入った。
この先も同じ様な道が続くが、地図での道路表記はたぶんここまでになる。

これぞ森林鉄道、といった光景に少しばかりテンションが上がった。





そんな道を進んでいくと、驚いた事に廃車が放置されていた。

逆に言えば、ここまではかつて軽自動車は通行できたという事になる。





自動車くらい今でも通れるぞと言わんばかりの、良好な状態の軌道跡があった。
半世紀近く前までは、機関車が通っていたはずなので、元々丈夫には出来ているはずだが。





左の先のほうが何か少し明るいな。
崩落とかではないと思うが、何だろう?





夕方とかだったら相当驚くだろうな。
この一帯は昭和63年度の県林業公社の造林地になっているようだ。
何らかの理由で木が無くなった部分の再植林であろうか。





橋が架かっていた。
頑丈そうだな。





絶対に歩行者用の橋ではない。
自動車が通行するのが前提、もしくは森林鉄道の橋を流用したものか?





だが、林鉄橋梁説は説得力が低くなる。
左を回り込む線形が林鉄のものであった可能性が高い。
しかしながら、それは旧線で、機関車導入の際にこの橋を架けた可能性もある。
その結論は残念ながら得られない。

ところで、もう地図上では何もない事になっている場所だが、この先も平穏な軌道跡が続くのだろうか??
(その6へつづく)

  

山梨県山梨市 三塩林鉄跡・第2次探索(その6)

【14年9月14日探索・10月1日公開】


現在地はたぶんこの辺

今渡った立派な橋は、しっかりした構造なのに欄干がなかったり、やはりちょっと不自然だ。林鉄流用橋であったと考える事にしよう。

その橋の先だが、少しだけ広いスペース、具体的には車が転回可能なスペースだった。
そして・・・





今の場所を最後に、シングルトラックになった。

となると、あの鋼・PC橋は転回スペースのためだけに架けられたという事になる。
この事からも再度流用橋説を推したい。





そして、ほんの3、40m先の谷に異変があった。





橋がない!道がない!
おそらくは木橋が架かっていたのだろうが、そんなものは痕跡さえもなかった。
万事休す・・・でもなかった。





なんと、ロープが渡されていたのだった。
先人のものなのか、何かの管理上、この先に進まなければならない人がいるのか??
いずれにせよ、これはまだ先に進めという暗示以外の何者でもなかった。





というわけでものの3分ほどで崩落地対岸へと渡った。
これは対岸から振り返った崩落地点になる。





さて、対岸に渡ったはいいが、軌道跡はこれまでとは一変しての荒れようであった。





これの、どこにかつて線路があったなんて想像できようか。
水路(たぶん)パイプだけが、我が物顔で進んでいるようにも見える。





対岸に渡ってから初めて軌道跡らしき区間があった。が、それはものの20mくらいの話だった。





もう撤収してもいいかな、とも思うのだが、こんな崩落箇所が続く場所でも、踏み跡があるんだよね・・・





つかの間の休息・・・

何か、先のほう、イヤな感じで、山肌がよく見えるのだが・・・

(その7・最終回につづく)

  

山梨県山梨市 三塩林鉄跡・第2次探索(その7・最終回)

【14年9月14日探索・10月2日公開】


現在地はこのあたり

ここは軌道跡の路盤の大半が流出し、辛うじてその路肩部分の施工だけが残っているという場所だ。





そんな場所から少し進むと、また崩落地が現れた。





ちなみに、この一帯だが、対岸の国道140号線から見るとこんな感じに見える。

これって、崩落というよりも地すべりか??





先ほどから崩落地点があると「もうだめか?」と思うのだが、この場所においても先人の踏み跡があるのが確認できてしまった。
なので、1歩ずつ、慎重に進む。





国道とは2枚上の画像のような位置関係なので、かすかに車の音が聞こえる。
あとは笛吹川のせせらぎの音と、歩くたびに鳴る私が携帯している熊よけ鈴の音が聞こえるだけだ。

この崩落地点をクリアすると・・・





大きな岩に守られた部分の、路盤がそのまま残っている区間になった。





しかしながら、そんな平場のホッとするような区間はほんの一瞬の安らぎだった。

ところで、手前に1本キノコが生えているが、ナカグロモロノカサあたりだろうか?





ここで、ちょっと右の方に視線を移す。
先ほどからの区間のうちのほとんどが、斜面が無理に削られたのが林鉄跡になっている。

なので画像ではわかりにくいが、笛吹川の流れがすぐ近くにあったりする。



さて、路盤に視線をもどす。

大きな岩に守られていたのは先ほどのわずかな区間で、その岩が崩れると、より進路が阻まれるのだった。





現在地はこの辺

また比較的大きな崩落地があった。
水路だけが宙にぶら下がっている。今度は谷を横断するための補助ロープなどは設置されていなかった。





見下ろしてみる。

かなり急な斜面だった。
攻略はまったく不可能ではないのだろうと思うが、ここで撤退する事に決めた。
スマホのGPSで確認した位置によれば、広瀬ダムまでは直線距離で500m強の地点のようだ。

結果としては中途半端な距離が探索不能として残ってしまったな・・・

(おわり)

  

茨城県かすみがうら市 衝撃の現役ショッピング施設

【14年9月28日探索・10月3日公開】


★本日の記事は、現役商業施設のため、場所の特定はしません(調べれば簡単にわかってしまいますが)★

茨城県土浦市神立中央 JR常磐線神立駅前だ。
この近くに衝撃物件があると聞いてやってきた。

ちなみに、物件所在地はかすみがうら市になる。

とりあえず県道141号線を進んでいこう。





ほどなくあったのがこの廃墟だが、これは目的の商業施設ではなかった。





その先に、見事にツタで覆われている建物があった。





建物の南側一面、ツタが絡まっている。
これだけ覆われていれば電気代等は節約できそうな気もする。

結果的にはエコな事になったようだが、計画的な設計ではなさそうだ。





そして、建物東側もすごい事になっていた。
ただ東側は2階と屋上部分だけで、1階部分だけを見れば普通っぽい。

ところで、これは大変失礼ながら、一見廃墟っぽく見える。
少なくとも私の第一印象は現役には見えなかった。





ところが、1階屋内、家具店らしき部分には照明が点いていたのだった。





建物北側に回ってみよう。
北側のツタはほんの少々だ。
この部分だけを見ればさほどの驚きは無いのだが・・・




この角度から見ると・・・

まず、手前の壁が抜け落ちている。
あともう1箇所、屋上とされるあたりに注目!





窓ガラス、どう見てもない状態である。
雨のふき込みなど、大丈夫だろうか?






西側には商業施設名が書いてある入り口があった。
が、何とも入りがたいな・・・1階では家具屋さんしか営業していないようなのだが、今現在、ほしい家具がなく、もし声をかけられたら困るという潜在意識がそう感じさせたのかも知れない。





2階があるようなので上がってみよう。
2階には上がってこられるが、その先、屋上への階段は封鎖されていた。





ツタ、天井まで伸びていた。
2階ではスナックが何軒か、夜になると営業しているようだ。
モップが立て掛けてあるので、メンテもある程度はされているようだ。

夜であれば建物全体を覆うツタはそう気にならないのかもしれない。

  

東京都奥多摩町 坂本園地バス停

【14年9月20日探索・10月4日公開】


現在地はここ

本日は小ネタでご勘弁を・・・

東京都西多摩郡奥多摩町河内 国道411号線である。
この先にバス停がある。名前は「坂本園地」だ。西東京バスの路線バスが1日17往復程度やってくる。

何度か通っている場所だが、そのバス停名には以前から違和感を覚えていた。
そう、この場所には駐車場らしきちょっとした広場以外、何も無いのだ(探索時にはその広場も工事のため使用されていた)。
しかしながら秩父多摩甲斐国立公園の園地としてちゃんと登録されている。
ここには何か出来る予定でもあったのか、あるいは最初からちょっとした広場が「園地」なのか、はたまた崖の上に展望地でも造ろうとしていたのか??

・・・まあいい。本日の記事はその件ではない。
下り方面のバス停が立っているのだが、反対側にバス停らしきものが見当たらないのだ。





キョロキョロしていると、道路反対側にヘンテコなもの、みっけ!





バス停、ここだよ・・・

ポール等の支柱的なものは一切無く、道路の落石防護用フェンスにバス停の部品たちが針金で括り付けられていたのだった。
西東京バスといえばここも変なバス停だったな。
他にも変なバス停があるかも・・・

  

茨城県土浦市 県道199号末端区間(前編)

【14年9月28日探索・10月5日公開】


現在地はここ

茨城県土浦市大志戸 二本松交差点を右折し県道53号線から県道199号線に入る。
なお、タイトルでは「末端区間」と書いたが、正確には末端ではなくレポは起点に向かっていく。
イメージ的に「末端」的な感じだったのでタイトルはそうした事をお断りしておく。





県道199号小野土浦線のヘキサがさっそくお出迎えしてくれた。
歩道の利用者はあまりいない印象だ。





通行量はそれなりに多い。
本県道は昨年朝日トンネルの開通により石岡市側とつながったが、朝日トンネルの接続部以北は県道ではなく、県道はその手前を右折し、まるで目立つ事を避けているかのようなルートをたどる。

また、本県道からそう遠くない場所にはかつて「ゆう・もあ村」というテーマパークがあったので、この光景になんとなく見覚えがある方もおられよう。
その成れの果てかもしれない看板枠が道路わきに建っていた。





現在地はここ

朝日トンネル南交差点を、前述したように右折する。





交差点を右折するとすぐこんな光景になる。
左側はかつて道路だった場所で、線形変更によりこうなった。
よく旧道と新道の接続部にあるような線形変更である。





朝日トンネルという通行量の多い、表舞台の賑わいを避けたかのような県道だが、ここでまたさらに、より車の少ない左側に入る。
ちなみに、直進方向は表筑波スカイラインに接続する道で二輪車は通行止の道路である。





一応2車線幅はあるのだが、通る車も時折という感じで、うらぶれた雰囲気だ。





現在地はここ

柿狩りというなじみの薄いレジャーが楽しめる農園を過ぎた。
小町の里は左折という看板の先に交差点がある。
ちなみに小町とは小野小町の事で、墓があるそうな。





ここでまた気になる看板支柱があった。
「ゆう・もあ村は左」のような看板だったかも??
ちなみにその「ゆう・もあ村」だが2011年ごろに解体されたそうだ。





直進が県道なのだが、どんどん人が通らない方向へと進んでいく(注:前述したが起点に向かってます)。
この先、道は狭くなるようだ。

(後編につづく)

  

茨城県土浦市 県道199号末端区間(後編)

【14年9月28日探索・10月6日公開】


少し道路は狭くなった。
ここは坂東三十三箇所26番札所にあたる清滝寺の参道だ。





完全に参道だな。
元は石畳の道だったのでは??





現在地はここ

正面石段を登ると清滝寺山門になる。
左側にも道路が続いている。地図を見ると何とも変な場所に見える。

さて、とりあえずここは茨城県道で間違いないのか?
茨城県道は道路の端を見るのが良い・・・私のこれまでの経験から。





茨城県管理の道路の証、まるいばマークがあった。
この場所は茨城県道という事で間違いなかった。





では「起点」とされる場所まで進んでみよう。
この先に、清水寺の駐車場があるようだ。





このいかにも「末端」な区間は完全1車線になる。
離合不能だが距離がそう長くないので、大きな問題は無いという事か?





ちなみに、もう少し進んだ場所で振り返るとこんな光景が目に入る。
山門の方へ延びる道は一般車両進入禁止の私道になる。





現在地はここ

そしてここが県道199号小野土浦線の起点と地図に描かれている場所だった。
清滝寺の駐車場は未舗装の左側のスペースである。
県道起点を示すものは見当たらなかったが、路面状況の違い(駐車場だけ未舗装)から、おそらく地図は正しいのだろうと思う。

(おわり)

  

神奈川県山北町 東名高速の工事用道路(その1)

【14年8月3日探索・10月7日公開】


現在地はここ

神奈川県足柄上郡山北町川西 あの斜張橋、嵐橋を渡り、しばし県道727号線を走る。

で、200mほど北西方向に進むと分岐が現れた。
ここを右に入る。





すぐに上りの勾配が始まりあえぎながら登っていくと、左前方に何かあるのを発見した。





こんな立地の、こんなコンクリート構造物と言えば・・・





やっぱりホッパー跡だった。
この付近、かつてはけっこう砕石場とかがあったので、その関連施設か?





このあたり、ガードレールはけっこう古く見える。
ここは東名高速道路の建設用工事道路である。
昭和42年6月の航空写真で、その姿が確認できる。
このガードレールがその当時のものかどうかは不明だが。





現在地はここ

大きな建物があった。
何も書かれていなかったが、東名高速の関連のものであろう。

左の道、気になるなあ・・・





立入禁止だったので入るわけにはいかなかったが、柵から見える道路はこんな感じだった。





その先、嵐集落だ。
古くから集落であったようだが、地図上ではそこへ通じるまともな車道が東名高速建設の時代まで無かったように見受けられた。





現在地はここ

嵐集落を過ぎる。
今ではこのあたりも不自然なほどの幅の広い道路が続いている。

つか、25km制限って・・・





30mくらい進んで振り返った。
やっぱりこの25km制限は普通の道路ではなかった頃の名残だと思う。

その証拠とも言える境界柱が手前側に建っていた。





日本の2文字しか見えないが、こえは「日本道路公団」で99%間違いない。
不自然な道幅も25km制限の標識も、工事用道路だった事がルーツだろう。

(その2へつづく)

  

神奈川県山北町 東名高速の工事用道路(その2)

【14年8月3日探索・10月8日公開】


日本道路公団の境界柱の場所から、回れ右をして、本来の進行方向へと向き直った。
矢印の、右側の道に進む。





現在地はここ
<進行方向は7時、のち4時>

地図ではゲートがあるという描かれ方で、現実もまったくその通りになっていた。
この先が気になるなあ。そもそも東名高速の新都夫良野トンネルの横坑のような終点が気になる。
まさかとは思うが中央自動車道のここのような用途があるかもしれないし・・・

ここで私はある発見をしたのだった。
それは・・・
立入禁止の明示がどこにもされていない!!





という訳で、ヘリオス号は待機、やや後ろめたさはあるものの「立入禁止」を突破していないという落ち着いたキモチでこの先に進む事にした。

それにしても、のっけからこれか。この先、もっと荒れているのか?





この道路、メンテがされていないようだ。
工事用の道路であろう事は、1983年の航空写真には道路が確認できないが1993年の航空写真にははっきりと写っている事からも間違いないと思う。
新都夫良野トンネルを含む別ルートは1991年の供用開始なので、その工事用道路はちょうど昭和から平成になる頃に造られたと見てはずしていないだろう。





その先は大きなヒビ等はないようだ。





元は舗装路であったはずの道路だが、現在では乗用車の走行でやっとくらいだ。

ところで、ここ山北町だが私の中では「隠れ避暑地」と位置づけている。
この日のさいたま市の最高気温は35℃だったが、山北町の正午前後の体感温度は29℃くらいだった。
夏場の探索では少しでも涼しそうな場所を探すのだが、このあたりもけっこう涼しかった。





矢印を付け忘れたが、ガードレールのカーブ地点に何かがある!





日本道路公団の境界柱はいいとして、そのとなりの石仏が、その場ではわからなかった。
帰宅後に調べたら、三面八臂の頭の上に馬の頭、の特徴から馬頭観音であろう事が判明した。





さあ、ラストだ~





現在地はここ

横坑に着いた。
が、残念ながらここには非常時の避難通路などの機能はなかった。

中は見えないが高速本線までつながっているものと思われる。
かつて荷物の搬入などに使用されたのだろうが、ここまでの道路の状態も踏まえて推測すれば、現在は利用されていないのではなかろうか。

いったん撤収し、新都夫良野トンネル東京方近くにあるもう一つの横坑を見に行こうと思う。

(その3・最終回につづく)

  

神奈川県山北町 東名高速の工事用道路(その3・最終回)

【14年8月3日探索・10月9日公開】


現在地はここ

yahoo地図ではまだ新道の方が通行できないように描かれていたが、実際はその逆になっていた。
新道が開通したのは割りと最近の事であろう。確認したところyahoo地図のこの地域の航空写真は2011年撮影だったが、その時点では新道工事は始まっていなかったようだ。





で、せっかくだから供用廃止となった旧道を進む。





しかし、旧道は既に現道との接続がされていなかった。
ま、戻るのもイヤだったので接続部まで行き、ヘリオス号はムリヤリ持ち上げてガードレールを跨いだが・・・





その接続部分あたりの景色は、お茶畑が山の斜面に広がっている、なかなか素敵なものだった。





2車線の拡幅済み部分はすぐに終わり、廃道となった旧道と同じ様な幅員と路面状況の道になった。





山北つぶらの公園とyahoo地図には描かれてるあたりだが、実際はまだ整備中であるようだ。





都夫良野集落を過ぎ、こんなヘアピンカーブの先には・・・





現在地はここ

この先に見える橋は都夫良野橋(右側・昭和44年竣功)、新都夫良野橋(左側・昭和61年竣功)で、東名高速の元からあるルートを跨いでいる。

そんな場所の右側を見る。





ここは立入禁止が明示されていた。
なので、ズームアップ!





ここもまた反対側と似た形状の横坑になっているようだ。





都夫良野橋から東名高速の本線を見る。
この場所は2本の高速道路が接近している。
普段から利用は出来ないものと思われるが、結果的に左ルートと右ルートの連絡道が設置された場所だった。

(おわり)

山梨県富士河口湖町 国道139号本栖橋旧道

【14年8月16日探索・10月10日公開】


現在地はここ

山梨県南都留郡富士河口湖町本栖 国道139号線本栖橋に差し掛かるところだ。
事前の机上調査ではまったくのノーマークの場所だったが、この左側はどう見たって旧道という道がバリケードの先に延びていた。





ちょっと目立つのが気になったが、そこは躊躇せずにフェンス脇の雑草の藪から旧道に進入した。





20mくらい進み振り返る。
旧道左の柱は「歓迎 富士河口湖町」的な事が書かれているもので、現道からはそれを確認する事が難しい位置に建っていた。おかしいな。

現道は昭和56年3月に竣功しており、その時点ではこの場所は西八代郡上九一色村であった。ここが富士河口湖町になったのは平成18年(2006)である。
なぜ見る人もほとんどいない旧道に建っているものまで現在の町名に書き換えられているのか?
旧村名はオウムの印象が強すぎるためにこんなものまで抹消しようとしたのか??





橋に対応する旧道で谷に迂回する道なので、特に構造物はない。





昭和56年(1981)に旧道落ちしているはずの道ではあるが、意外なほど荒れていない。
ちょっと整備すればすぐ使えそうなほどだ。





旧道は300mほどで終了し、本栖橋南詰で現道と合流する。
ちなみに、この建物は冬季の融雪装置であると思われる。





現道・本栖橋からは本栖湖とその向こう側の山が綺麗に見える。
これだけ景色がいいのなら旧道を駐車場にして、橋付近に展望台があってもいいような気がした。


  

埼玉県皆野町 地図に描かれている変わり丸太橋

【14年10月4日探索・10月11日公開】


現在地はここ

埼玉県秩父郡皆野町金沢 県道44号秩父児玉線だ。
ここに諏訪平というバス停がある。秩父鉄道皆野駅前から町営バスが平日7.5往復、休日は5往復やってくる。

そんな場所から東方向70mくらいの場所に小さな橋記号がある。
どんな橋が架かっているのか、ちょっと気になった。

バス停裏へ延びる細い道を行ってみる。





バス停あたりでは、軽自動車くらい普通に走れる道かな?とも思ったが、軽自動車でもけっこう苦労して走る道に見えた。





そろそろ橋がある頃、と思っていたら、どうやら橋らしき構造物が・・・





ん!!

何だ、こりゃ??
これでも橋・・・





橋の先にも足跡が残っているので、まだ一応、需要があるようだ。





全長2m強の橋なので、楽勝・・・でもなかった。
なぜか?

渡してある丸太がけっこう腐っていて、1本には体重を任せられず、乗ると壊れそうと感じたからだった。

この画像は反対側からの撮影だ。
丸太が9本もあるかのようだが、なぜこんな造りにした?
あるいは元々は、別の板がこの上を通っていて、橋の体裁があった??
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