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埼玉県日高市~飯能市 明治県道だった道(その3)

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【13年9月7日探索・9月20日公開】

http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/3b/a6/takaratta_1152/folder/1619027/img_1619027_53824518_0?1379605821

現在地はここ

昨日の記事の分岐地点まで戻り、今度はそのまま直進する。




http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/3b/a6/takaratta_1152/folder/1619027/img_1619027_53824518_1?1379605821

路面をよく見ると、かわいいキノコが生えていた。
路面は未舗装なので不思議はないのだが。




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高圧線の鉄塔に当たった。
そしてここまでが自動車通行可能な道であった。

車道だったのは高圧線管理のためだったようだ。




http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/3b/a6/takaratta_1152/folder/1619027/img_1619027_53824518_3?1379605821

あれ??

何でここに国鉄の敷地境界柱が建っているんだろう?




http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/3b/a6/takaratta_1152/folder/1619027/img_1619027_53824518_4?1379605821

その理由は少しの観察で判明した。
この高圧線には前久保ー武蔵境という表記があったが、岡部武蔵境線というらしく、その持ち主はJR東日本だったのだ。
前久保は埼玉県毛呂山町にある地名で、そこから分岐しているという事か?

昭和14年11月という札が書かれていたが建設からだと70年以上も経っているという事になる?




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高圧鉄塔の左からシングルトラックが続いていた。

明治県道はどこだったんだろうか・・・
右の藪がそうでありそうだった。




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その先、杉林になり、道路であったであろう平地の幅はえらく広くなった。




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もう1本高圧線鉄塔があった。
ちなみにこちらは東京電力のものだ。

そして、道はこの先が無いようだった。




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現在地はここ

JR八高線の架線柱が見えた。
そして、進むべき道の所には何やらコンクリート構造物があった。




http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/3b/a6/takaratta_1152/folder/1619027/img_1619027_53824518_9?1379605821

ちょうど電車が通過していった。

・・・ここで言いたいのはそんな事ではなかった。
このコンクリ構造物は・・・それしか考えられなかった。




http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/3b/a6/takaratta_1152/folder/1619027/img_1619027_53824518_10?1379605821

ここにかつて架かっていた国鉄八高線(当時)跨線橋の橋台が完全な形で残っていたのだった。

この旧県道は大正9年頃に旧道落ちしたことは前述したが、一体いつ頃まで通行可能であったのか??
私の調べでは、戦時中までは八高線の跨線橋が架かっており、通行可能であったという。

そうなると架橋は八高線開業時の昭和8年頃、ここに橋がなくなったのは昭和20年前後という事になろうか。
の割には非常に綺麗な橋台である。
ちなみに、向こう側にはそれらしい構造物は何も確認できなかった。

それにしても線路が越えられなかった。また大迂回になる。

(その4へつづく)

  

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