【13年9月7日探索・9月20日公開】
現在地はここ
昨日の記事の分岐地点まで戻り、今度はそのまま直進する。
路面をよく見ると、かわいいキノコが生えていた。
路面は未舗装なので不思議はないのだが。
路面は未舗装なので不思議はないのだが。
高圧線の鉄塔に当たった。
そしてここまでが自動車通行可能な道であった。
そしてここまでが自動車通行可能な道であった。
車道だったのは高圧線管理のためだったようだ。
あれ??
何でここに国鉄の敷地境界柱が建っているんだろう?
その理由は少しの観察で判明した。
この高圧線には前久保ー武蔵境という表記があったが、岡部武蔵境線というらしく、その持ち主はJR東日本だったのだ。
前久保は埼玉県毛呂山町にある地名で、そこから分岐しているという事か?
この高圧線には前久保ー武蔵境という表記があったが、岡部武蔵境線というらしく、その持ち主はJR東日本だったのだ。
前久保は埼玉県毛呂山町にある地名で、そこから分岐しているという事か?
昭和14年11月という札が書かれていたが建設からだと70年以上も経っているという事になる?
高圧鉄塔の左からシングルトラックが続いていた。
明治県道はどこだったんだろうか・・・
右の藪がそうでありそうだった。
右の藪がそうでありそうだった。
その先、杉林になり、道路であったであろう平地の幅はえらく広くなった。
もう1本高圧線鉄塔があった。
ちなみにこちらは東京電力のものだ。
ちなみにこちらは東京電力のものだ。
そして、道はこの先が無いようだった。
現在地はここ
JR八高線の架線柱が見えた。
そして、進むべき道の所には何やらコンクリート構造物があった。
そして、進むべき道の所には何やらコンクリート構造物があった。
ちょうど電車が通過していった。
・・・ここで言いたいのはそんな事ではなかった。
このコンクリ構造物は・・・それしか考えられなかった。
このコンクリ構造物は・・・それしか考えられなかった。
ここにかつて架かっていた国鉄八高線(当時)跨線橋の橋台が完全な形で残っていたのだった。
この旧県道は大正9年頃に旧道落ちしたことは前述したが、一体いつ頃まで通行可能であったのか??
私の調べでは、戦時中までは八高線の跨線橋が架かっており、通行可能であったという。
私の調べでは、戦時中までは八高線の跨線橋が架かっており、通行可能であったという。
そうなると架橋は八高線開業時の昭和8年頃、ここに橋がなくなったのは昭和20年前後という事になろうか。
の割には非常に綺麗な橋台である。
ちなみに、向こう側にはそれらしい構造物は何も確認できなかった。
の割には非常に綺麗な橋台である。
ちなみに、向こう側にはそれらしい構造物は何も確認できなかった。
それにしても線路が越えられなかった。また大迂回になる。
(その4へつづく)