【15年1月17日探索・6月9日公開】
現在地はこの辺
石碑のところからさらに数段の階段を下り、水面がすぐそこに見える位置
まで下ってきた。
まで下ってきた。
そこには何か溝のような構造物があった。
そして、何か説明板のようなものがある。見てみよう。
そして、何か説明板のようなものがある。見てみよう。
説明板だった。
そこにはこのような事が書かれていた。
そこにはこのような事が書かれていた。
ここは、明治20年に完成したわが国で初の近代水道である横浜水道創設
時の取入れ所跡です。建設時は道志川と相模川の合流する地点に2個の突
堤で小湾口を設け、一日最大5,720㎥の水を鉄管2条で抽水井に導き、そ
こからポンプで沈澄池に揚水していました。
沈澄池からは、隧道と導水管により自然流下で約44km離れた横浜市内
の野毛山浄水場に送水していたもので、明治30年には道志川の青山に移
されたことにより廃止されました。
またこの取入れ所跡は、昭和60年5月に日本の近代水道発祥の史跡とし
て「近代水道百選」に選定されました。
時の取入れ所跡です。建設時は道志川と相模川の合流する地点に2個の突
堤で小湾口を設け、一日最大5,720㎥の水を鉄管2条で抽水井に導き、そ
こからポンプで沈澄池に揚水していました。
沈澄池からは、隧道と導水管により自然流下で約44km離れた横浜市内
の野毛山浄水場に送水していたもので、明治30年には道志川の青山に移
されたことにより廃止されました。
またこの取入れ所跡は、昭和60年5月に日本の近代水道発祥の史跡とし
て「近代水道百選」に選定されました。
何!!明治20年(1887)だって!!
ここにある溝は沈殿池の跡で、実際の取入口跡は通常は津久井湖の水面下
に沈んでしまっているらしい。
ここにある溝は沈殿池の跡で、実際の取入口跡は通常は津久井湖の水面下
に沈んでしまっているらしい。
入ってきた側から言うと、これは左側になる。
そしてこちらが右側、取水口跡により近い側になる。
が、だんだんと藪がすごくなり・・・
4、50で行き止まりとなっていた。
この笹薮を無理やり抜ければ沼本ダムの近くに抜けられたかもしれない。
この笹薮を無理やり抜ければ沼本ダムの近くに抜けられたかもしれない。
この日の私は、沈殿池に入る事くらいしか出来なかった。
128年前に造られた近代水道発祥の地、なのだが、明治30年には廃止
されているので、なんと10年しか使われなかった事になる。
されているので、なんと10年しか使われなかった事になる。
(おわり)