【14年5月18日探索・5月27日公開】
5mほどの築堤のような部分を降りると、小さな川があり、その先に旧隧道が待っていた。
川はカルバートでクリアしていた。
これは隧道と同時期なのか、後年になってから設置されたものかは不明だったが、とても現代的には見えなかった。
これは隧道と同時期なのか、後年になってから設置されたものかは不明だったが、とても現代的には見えなかった。
下山隧道、隧道データベースによれば大正12年(1923)竣工である。
全長234m、高さ3.5m、幅員4m・・・当時(大正の府縣道1号甲府静岡線時代)は良かったのだろうが、戦後国道となり、交通量が増加してくると隧道はやっぱり狭い。
で、昭和43年に現道ルートに変更したそうだ(竣工年など「山さ行がねが」より)。
全長234m、高さ3.5m、幅員4m・・・当時(大正の府縣道1号甲府静岡線時代)は良かったのだろうが、戦後国道となり、交通量が増加してくると隧道はやっぱり狭い。
で、昭和43年に現道ルートに変更したそうだ(竣工年など「山さ行がねが」より)。
ところで本隧道の最大の特徴は、やはり扁額がやたらデカイ事だろう。
右書きの「下山隧道」の左側に何か掘られているが、これも「山行が」に答えが載っていた。
「梅谷題」・・・第24代山梨県知事梅谷光貞(大正12年10月~大正13年6月まで在任)の事だそうだ。
「梅谷題」・・・第24代山梨県知事梅谷光貞(大正12年10月~大正13年6月まで在任)の事だそうだ。
この扁額、取り付けられたような形跡がなく、坑門と一体になっており、型で押して成型したっぽかった。
一応フェンスで完全封鎖されてはいたが、下部に少々隙間があった。
隙間さえあればフェンスなので多少持ち上がる。腹ばいになればどうにか通過可能だった。
隙間さえあればフェンスなので多少持ち上がる。腹ばいになればどうにか通過可能だった。
入洞!
・・・入り口から15mくらいの場所が狭くなっていた。
このパターンの場合、必ず。。。
このパターンの場合、必ず。。。
ぶつかった車、多数・・・
ここだけ強度に不安でも生じたのだろうか??
その先は素掘にコンクリ吹きつけとなっていた。
私はデジカメのスペックを最大に上げて撮影したのだが、無論、こんなに明るいはずはない。
実際の明るさは、両側からわずかな光が入ってくるものの、ライトが無いと通過するのも怖いほどだった。
実際の明るさは、両側からわずかな光が入ってくるものの、ライトが無いと通過するのも怖いほどだった。
反対側出口に近づいた。
が、こちら側から外に出られるような隙間はなかった。
左のほうに、猫なら通れるくらいの破損があったが・・・私はとても通過できなかった。
左のほうに、猫なら通れるくらいの破損があったが・・・私はとても通過できなかった。
一応、腕だけを外に出し、扁額を撮影しようとしてみた。
4枚撮影したが・・・全部失敗だった。
4枚撮影したが・・・全部失敗だった。
仕方がないので、撤収しよう。
1往復の帰りの、残り30mくらいの場所だ。
「逆さ隧道」私も拝む事ができた。
1往復の帰りの、残り30mくらいの場所だ。
「逆さ隧道」私も拝む事ができた。
(おわり)