【14年1月26日探索・3月10日公開】
ほんの数メートルだが竹薮はすさまじかった。
当然ヘリオス号は手前に待機させた。
ここは一番すごい藪を抜けたところだが、1月とは思えないような、単独でもいやになるような、そんな藪だった。
当然ヘリオス号は手前に待機させた。
ここは一番すごい藪を抜けたところだが、1月とは思えないような、単独でもいやになるような、そんな藪だった。
とは言え元々そんなに距離がある訳でもないので現道はすぐに見えた。
現道へ脱出し道路反対側から今来た藪の方うを見た。
こりゃあ、この先に道路があったなんて考えないよな、普通は。
でもオブローダーなら不自然なバリケードにすぐに反応するかも。
こりゃあ、この先に道路があったなんて考えないよな、普通は。
でもオブローダーなら不自然なバリケードにすぐに反応するかも。
ところで、現橋にも情報が見当たらない。これだと年代の推定が何もできない。
少し下に行ってみようか。
少し下に行ってみようか。
曲線の桁橋の下側にやって来た。
ええと、銘版とか、ないのかな・・・
ええと、銘版とか、ないのかな・・・
あった!
1969年、昭和44年3月架橋だった。
これにより旧橋はそれ以前の架橋、つまりどんなに新しくても昭和30年代という事がまず言える。
これにより旧橋はそれ以前の架橋、つまりどんなに新しくても昭和30年代という事がまず言える。
改めて、旧橋がよく見えるポイントを探して撮影した。
アーチ、というよりもむしろラーメン構造と言えようか。
アーチ、というよりもむしろラーメン構造と言えようか。
そしてこのタイプは戦後の橋ではあまり見かけない。
最後に地図を2枚見比べて頂きたい。
これは平成7年発行5万分の1地形図「上野原」の一部抜粋、加工したものになる。
これは平成7年発行5万分の1地形図「上野原」の一部抜粋、加工したものになる。
赤い印のあたりが旧橋の場所になる。
で、これが昭和22年発行5万分の1地形図「上野原」の一部抜粋、加工したものになる。
道路の線形が現在とは全然違うが、この場所に橋が架かっていた事はまず間違いないだろう。
架かっていた角度が違うような気もするが、誤差範囲の範疇とも思える。
この当時は牧野村道だったようで、地図から読み取れる幅員は1~2m、荷車スペックと考えられようか。ちなみに橋の幅員は3~3.5m程度だった。
また、昭和18年の陸軍撮影の航空写真では、橋は昭和22年版の地図の角度ではなくもっと川の流れに対し直角に架かっているように見えた。
道路の線形が現在とは全然違うが、この場所に橋が架かっていた事はまず間違いないだろう。
架かっていた角度が違うような気もするが、誤差範囲の範疇とも思える。
この当時は牧野村道だったようで、地図から読み取れる幅員は1~2m、荷車スペックと考えられようか。ちなみに橋の幅員は3~3.5m程度だった。
また、昭和18年の陸軍撮影の航空写真では、橋は昭和22年版の地図の角度ではなくもっと川の流れに対し直角に架かっているように見えた。
これらを総合的に考え、コンクリートの廃れ具合も加味すると、宮沢橋旧橋は昭和18年以前の架橋であろうと推測する。
引き続き調査は続けるが。
引き続き調査は続けるが。
(おわり)