【18年11月24日探索・19年1月7日公開】
まだ今の時点では少々フライングだが、朝には到達しているだろう。なので、自己満足の塊・記念企画の連載を始めようと思う。
★130万HITという事で、訪問して頂けるすべての方に感謝致します。コメントやナイスを頂ける方には、特に感謝したいと思います。
120万HITからの10万アクセスは約5か月半、平均550名を超える方に来て頂いた事になり、私のモチベーションの元になります。
これからもまだ続けようと思いますので、今後もどうぞよろしくお願い致します。★
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今回取り上げたのは山梨県内になる。ウェブ上では既出ネタなので、ご覧になった方も居られよう。国道411号線の旧道にあたる明治の馬車道だ。
ここで今回辿っていく道について簡単にまとめてみた。
この道は第5代山梨県令 藤村紫朗の尽力により明治11年(1878)に開通した馬車道だ。
青梅街道は甲州街道の裏街道として武田信玄の時代からあった道だが、途中大菩薩峠(標高1897m)という難所があり、馬車の通行など到底無理だった。
その最大の難所を迂回する形で、新青梅街道は柳沢峠(標高1472m)経由で塩山~丹波までは開通したものの、そこから東側は長い事整備される事はなかった。
その後、東京府による小河内ダム(東京都奥多摩町)建設に伴う補償事業として整備が始まり、昭和20年(1945)に青梅側から船越橋まで、昭和34年(1959)にはほぼ今の国道411号線のルートで車道が開通したが、その時に高地の北側斜面という理由で放棄されたのが、今回のターゲット、山梨県北都留郡丹波山村の船越橋~甲州市の藤尾橋までの約6kmだ。
この道は第5代山梨県令 藤村紫朗の尽力により明治11年(1878)に開通した馬車道だ。
青梅街道は甲州街道の裏街道として武田信玄の時代からあった道だが、途中大菩薩峠(標高1897m)という難所があり、馬車の通行など到底無理だった。
その最大の難所を迂回する形で、新青梅街道は柳沢峠(標高1472m)経由で塩山~丹波までは開通したものの、そこから東側は長い事整備される事はなかった。
その後、東京府による小河内ダム(東京都奥多摩町)建設に伴う補償事業として整備が始まり、昭和20年(1945)に青梅側から船越橋まで、昭和34年(1959)にはほぼ今の国道411号線のルートで車道が開通したが、その時に高地の北側斜面という理由で放棄されたのが、今回のターゲット、山梨県北都留郡丹波山村の船越橋~甲州市の藤尾橋までの約6kmだ。
この建物はJR青梅線奥多摩駅からの路線バスの終点、丹波バス停の車庫の建物だ。
この日は天候が良かったせいか、奥多摩駅前は登山客等で大混雑だった。
朝8時台には臨時の路線バスが3台も出て、私はようやくその4台目(時刻的には定期バス)に乗車できた。しかし、そのバスも終点の丹波まで乗車したのは私一人だけだった。
朝8時台には臨時の路線バスが3台も出て、私はようやくその4台目(時刻的には定期バス)に乗車できた。しかし、そのバスも終点の丹波まで乗車したのは私一人だけだった。
この、丹波バス停までやってくるバス(西東京バス)は1日5回だが、赤字であるようで自治体からの補助金で運行されているそうだ。
山梨県北都留郡丹波山村にとっては唯一の公共交通機関だが、丹波山村は人口わずか529人(2018年10月1日推計)なので、登山客などを除けばそもそも人がいない、山梨県でも人口は最小の自治体だ。東京都に隣接している自治体とは思えない過疎ぶりだ。
ちなみに、写っている荷物は臨時バスに乗車していた人のものと思われる。
山梨県北都留郡丹波山村にとっては唯一の公共交通機関だが、丹波山村は人口わずか529人(2018年10月1日推計)なので、登山客などを除けばそもそも人がいない、山梨県でも人口は最小の自治体だ。東京都に隣接している自治体とは思えない過疎ぶりだ。
ちなみに、写っている荷物は臨時バスに乗車していた人のものと思われる。
ところでこの建物、何だかいいなあ。
折り返しのバスはこのが車庫を利用せずそのまま走り去ったが、こんな素敵な車庫にバスが停まっていたらそれだけでも絵になると思う。
切符売り場や売店などはないが、車庫奥にはちゃんとした水洗のトイレが設置されていた。
折り返しのバスはこのが車庫を利用せずそのまま走り去ったが、こんな素敵な車庫にバスが停まっていたらそれだけでも絵になると思う。
切符売り場や売店などはないが、車庫奥にはちゃんとした水洗のトイレが設置されていた。
何名かの登山客が出発した後、私も探索のスタート地点へと出発する。
ちなみに右側の建物には「手打そば」という文字が書かれていたが、営業している感じではなかった。
ちなみに右側の建物には「手打そば」という文字が書かれていたが、営業している感じではなかった。
途中で見つけた唯一のキロポスト、63kmだ。
丹波バス停から約4km走り、羽根戸トンネルを抜けた場所、船越橋だ。
左側には旧道が見えるが、1代前の橋は既に撤去されており、現橋は平成14年(2002)供用開始のものだ。
左側には旧道が見えるが、1代前の橋は既に撤去されており、現橋は平成14年(2002)供用開始のものだ。
現在地はここ
反対側には駐車スペースがあり、私のヘリオス号もこの隅に停めておくことにした。
そして、この階段が探索のスタート地点、時刻は10時10分だ。
そして、この階段が探索のスタート地点、時刻は10時10分だ。
階段を上がったところから旧道が始まる。
いきなり、道路はない。
ヘリオス号を押しと担ぎでこの旧道が突破できるなら、帰りは歩かずに済む(歩くのは現道だが)ので、大変楽になる。
しかし、いきなりこれではヘリオス号を置いてきたのは正解だったのかな。
ヘリオス号を押しと担ぎでこの旧道が突破できるなら、帰りは歩かずに済む(歩くのは現道だが)ので、大変楽になる。
しかし、いきなりこれではヘリオス号を置いてきたのは正解だったのかな。
ところで、左側に石が積みあがっている何かがあるが・・・
炭焼き窯の跡??
最初の難関だ。
油断すると滑落の危険もあるが、国道からはこんなによく見える場所だ。
車で通る人からはへっぴり腰で進む私の姿が見えたんだろうな・・・
油断すると滑落の危険もあるが、国道からはこんなによく見える場所だ。
車で通る人からはへっぴり腰で進む私の姿が見えたんだろうな・・・
道ははっきりしないものの、滑落危険ゾーンは脱出した。
その先、道路としての大きな痕跡、石垣が残っている個所があった。
この道は、楽しめそうだ。
この道は、楽しめそうだ。
(その2へつづく)