【18年2月11日探索・6月25日公開】
現在地はこの辺
ものすごい切通しが私の前に現れた。
これが、かつてパソコンの画面上で見た「真倉の切割」なんだ・・・
(注:私はウェブ上で見た場所へ探索する場合、なるべく新鮮な感動を得たいので、訪問直前には極力既出記事を見ない事にしている。ただ、それは一方でお宝をスルーしてしまう等の失敗を生む原因にもなっている。)
(注:私はウェブ上で見た場所へ探索する場合、なるべく新鮮な感動を得たいので、訪問直前には極力既出記事を見ない事にしている。ただ、それは一方でお宝をスルーしてしまう等の失敗を生む原因にもなっている。)
高さは20mくらいはあろうか。そして幅員は5~6mくらいはありそうだ。
何でも明治35年(1902)に開削され、昭和16年(1941)に旧道落ちしているらしい(情報はいずれも「山さ行がねが」より)。
何でも明治35年(1902)に開削され、昭和16年(1941)に旧道落ちしているらしい(情報はいずれも「山さ行がねが」より)。
左を見上げた。
多少は欠落しているので、小規模の崩落はあったのだろう。
それでも、開削されてから110年以上、旧道落ちの無管理状態になってから70年以上が経過しているのにこの状態というのは素晴らしい。
多少は欠落しているので、小規模の崩落はあったのだろう。
それでも、開削されてから110年以上、旧道落ちの無管理状態になってから70年以上が経過しているのにこの状態というのは素晴らしい。
右側も同様だった。
ところで、千葉の人はすぐに隧道を掘ってしまうイメージが強いのだが、なぜここは隧道ではなかったのだろう?
ところで、千葉の人はすぐに隧道を掘ってしまうイメージが強いのだが、なぜここは隧道ではなかったのだろう?
さて、真ん中の方は少しばかりぬかるんでいるので、なるべく端を通りながら前に進む。
切割の場所が峠になっていて、その先は下りになる。
切割の場所が峠になっていて、その先は下りになる。
せっかく来た凄い場所だから、もう一度振り返る。
峠だったから、開削された後にさらに掘り下げられたのだろうか?それなら隧道でなかったという説明がつくな。
峠だったから、開削された後にさらに掘り下げられたのだろうか?それなら隧道でなかったという説明がつくな。
もう少し離れた場所から、再び振り返る。
ここ、予算等の事はあろうが、土木遺産としてちゃんと整備し残した方がいいと思うのだが・・・
ここ、予算等の事はあろうが、土木遺産としてちゃんと整備し残した方がいいと思うのだが・・・
下りに入ると、路面の状態が一気に悪化した。
そして、右前方に何か構造物があるのを発見した。
これは、何だった建物だろう??
広さとしては6畳が2間という感じか(もっとも、中では3つに仕切られていたようだが)
広さとしては6畳が2間という感じか(もっとも、中では3つに仕切られていたようだが)
反対側からも見てみた。
コンクリートブロック造りである事以外はわからなかった。
戦後のものであろうし、何かの作業詰め所的なものか??謎だな・・・
コンクリートブロック造りである事以外はわからなかった。
戦後のものであろうし、何かの作業詰め所的なものか??謎だな・・・
さあ、先に・・・進めるのか?
探索時は2月なんですけど・・・
探索時は2月なんですけど・・・
(後編につづく)