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山梨県身延町 国道52号線旧道・下山隧道(後編)

【14年5月18日探索・5月27日公開】


現在地はこの辺
<撮影方向、進行方向とも12時>

5mほどの築堤のような部分を降りると、小さな川があり、その先に旧隧道が待っていた。





川はカルバートでクリアしていた。
これは隧道と同時期なのか、後年になってから設置されたものかは不明だったが、とても現代的には見えなかった。





下山隧道、隧道データベースによれば大正12年(1923)竣工である。
全長234m、高さ3.5m、幅員4m・・・当時(大正の府縣道1号甲府静岡線時代)は良かったのだろうが、戦後国道となり、交通量が増加してくると隧道はやっぱり狭い。
で、昭和43年に現道ルートに変更したそうだ(竣工年など「山さ行がねが」より)。

ところで本隧道の最大の特徴は、やはり扁額がやたらデカイ事だろう。





右書きの「下山隧道」の左側に何か掘られているが、これも「山行が」に答えが載っていた。
「梅谷題」・・・第24代山梨県知事梅谷光貞(大正12年10月~大正13年6月まで在任)の事だそうだ。

この扁額、取り付けられたような形跡がなく、坑門と一体になっており、型で押して成型したっぽかった。



一応フェンスで完全封鎖されてはいたが、下部に少々隙間があった。
隙間さえあればフェンスなので多少持ち上がる。腹ばいになればどうにか通過可能だった。

入洞!

・・・入り口から15mくらいの場所が狭くなっていた。
このパターンの場合、必ず。。。





ぶつかった車、多数・・・

ここだけ強度に不安でも生じたのだろうか??





その先は素掘にコンクリ吹きつけとなっていた。

私はデジカメのスペックを最大に上げて撮影したのだが、無論、こんなに明るいはずはない。
実際の明るさは、両側からわずかな光が入ってくるものの、ライトが無いと通過するのも怖いほどだった。





反対側出口に近づいた。





が、こちら側から外に出られるような隙間はなかった。
左のほうに、猫なら通れるくらいの破損があったが・・・私はとても通過できなかった。





一応、腕だけを外に出し、扁額を撮影しようとしてみた。
4枚撮影したが・・・全部失敗だった。





仕方がないので、撤収しよう。
1往復の帰りの、残り30mくらいの場所だ。
「逆さ隧道」私も拝む事ができた。

(おわり)

  

静岡県静岡市 個人架橋の橋3本

【14年3月29日探索・5月28日公開】


現在地はここ
<進行方向は4時・30mほど進んだ橋の上からは11時の方角を見て撮影(次の画像)】

静岡県静岡市葵区俵沢 県道27号賤北橋手前だ。
その賤北橋から左方向を見てみた。





画像は少しズームアップした。そこに写っていたのは、小規模な橋が3本くらいだ。
ちょっと、行ってみよう。





こんな橋を渡って・・・





一番手前に見えたのがこの橋になる。
鋼製桁橋で、床面が木という橋だった。





その上流の2本だ。
それぞれ、個人宅敷地内い向かって架かっていた。






この橋など、手すりまで付いた鋼製ラーメン橋であるようだ。

東京都奥多摩町 倉沢地区探索記(その1)

【14年4月27日探索・5月29日公開】


現在地はここ
<進行方向は概ね12時>

東京都西多摩郡奥多摩町日原 都道204号線からの分岐で、倉沢林道入り口だ。

「倉沢」と聞いて反応するのは廃墟マニアとケイビングマニアかと思う。
数多くの廃墟系サイトで倉沢は廃村として取り上げられている。
そして、倉沢にはかつて観光鍾乳洞「倉沢鍾乳洞」があったが、危険が多く閉鎖され久しい。

今回はそんな倉沢を巡ってみようと思う。
まずは倉沢林道を行ってみよう。

左に通行止っぽい看板があるが、起点付近で土砂崩れがあるので注意せよ的な事が書かれていた。
つう事は、ここは林道終点なんだ。





出発と同時に振り返る。
都道204号のワーレントラス橋・倉沢橋(昭和34年竣工)だ。
橋の下が61mもあり、都道で一番高い橋でもある。





分岐から40m。
もう何だか怪しげな予感・・・





そこから100m。
カーブ地点の落石がすごい。





さらに200mくらい進むと、明らかに、大規模な落石かなだれがあった場所があった。
路面は簡易舗装に変わっていた。





現在地はここ

さらに200mくらい進んでいる。
簡易舗装もあっという間に終わって、未舗装になった。
この先、橋が架かっているようだ。





宮下橋、昭和36年8月竣工である。
接続する都道204号の開通が昭和34年なので、倉沢林道はずいぶん古い林道になる。





わずか500mほど手前、舗装路のガードレール付が懐かしいな。





長年耐えていた擁壁の石垣も崩れていた。





その先、林道ならではの標識があった。
注意せねばならないのは路肩ばかりではなさそうだが・・・

(その2へつづく)

  

東京都奥多摩町 倉沢地区探索記(その2)

【14年4月27日探索・5月30日公開】


現在地はここ
<進行方向は基本1時>

縮尺を3000分の1まで上げるとここに橋が架かっていると描かれた地図になる。

八幡橋・昭和35年8月竣工だ。床版橋だろうか。





橋の脇には名もない小さな滝が流れていた。





その300mくらい先にも同様の橋が架かっていた。
鳴瀬橋・昭和36年3月竣工である。





橋を渡ると上り勾配がこれまでよりもキツくなる。
左の擁壁の空積みの石垣が好ましいが、未舗装という事もあって乗車はあきらめ、押しで進む。





突然、舗装が復活した。
・・・が、こういった場合、たいてい勾配がさらにキツくなるか、険しい箇所になるかのどちらかになる事のだが・・・





舗装区間は150mほどだっただろうか。
勾配は急ではあったが、際立ってということもなかった。
険しさはというと、この150mの間で、直近での山側斜面崩落跡1箇所が見られた。





現在地はこの辺

右側に何かがある!





何か建物の基礎だった。
そういえば林道のこの手前20mくらいの場所に、3台くらいの車が停められるスペースがあった。

ここが倉沢鍾乳洞のかつての入洞券販売所があった所であろう。
かつて観光洞があったなんて信じられないくらい、洒落っ気のまったくない林道沿いだ。





廃階段を下りると・・・





倉沢川を渡っていた橋脚だけが残っていた。

ここが渡れれば、その先500mくらいで鍾乳洞に達するようだが、非常に危険なため立入禁止になっていると聞く。





なので、これ以上の深追いはやめて林道に戻ろう。

橋桁を乗せる台の部分がかなり大きい。
かつてこの橋脚に乗っていたのはどんな桁だったのだろうか??

(その3へつづく)

  

東京都奥多摩町 倉沢地区探索記(その3)

【14年4月27日探索・5月31日公開】


現在地はこの辺
<撮影方向・進行方向とも1時>

路肩注意標識が建っていた。
ここで注意すべきは路肩だけではなかろうに、などと思いながら進んでいくと・・・





右側の山の斜面がすごい事になっていた。
これだけ大量の木がなぎ倒されているところから、先の大雪の後に大規模な雪崩が発生した可能性が高い。





被害は対岸だけではなかった。
ここで四輪は完全アウト!

マピオン地図にはこの先も道が描かれているが、yahoo地図などではちょうどこのあたりで道が終了しているかのように描かれている。





倒木を乗り越えると、その先にはまた橋が架かっていた。





橋の手前が派手に陥没していた。
橋の名は魚留橋・昭和37年10月竣工だ。

橋を渡った先には明らかに盛土があった。いすれかの時代に、車道としての林道はここまでという事になっていたようだ。





車は来ないのでこんな倒木があってもあまり気にしていないのか?





現在地はここ

そんな訳でもないようだ。

2枚目の画像の、雪崩跡と思われた場所はまさに林道のヘアピンカーブ地点だった。





どうせ戻ってくる道なのでヘリオス号は待機させ、この先は単独行だ。
大崩落のヘアピンカーブ地点の上には滝があった。




同じ場所で少し右を見た。
いったいどこが道だったなんて相当目を凝らしてもわかりそうにない。





路面が復活した。先に進もう。

ところで右に変な梯子がある。これは誘いか・・・





これを上がってもかなり危険そうだ。
誘いには乗らない事にしよう。





左に傾いている落石注意の補助標識があった。

これだけ大きな石が多数転がっていると、説得力は上がるかも・・・

(その4へつづく)
  

東京都奥多摩町 倉沢地区探索記(その4)

【14年4月27日探索・6月1日公開】


現在地はこの辺

mapion地図ではまだこの先に道が400mくらい続いている事になっている。
ちなみにyahooやgoogleマップだと私がいる地点には道は描かれていない。

前方に橋が見えてきた・・・が、何か様子がおかしい。





橋の手前、10数メートルに渡って、路面のほとんどが崩落していた。
これは先日の大雪のしわざではなさそうで、少なくとも数年以上前にはこの状態になったように見えた。





橋の名は地蔵橋・その竣工は昭和38年3月だった。
こんな人里離れた場所の林道橋が50年以上も前に架けられていたとは・・・
当時、奥多摩の林業と言うのは石灰石算出同様に、相当盛んだったのだろう。

路肩注意標識とオブジェのような大きな落石がアクセントと言えようか。





その先、最終区間に入ったものと思われるが、舗装が復活していた。
荒廃もあまりしていないようで、現役林道と言われても充分納得する。





雪が残っていた。
2月中旬の後にはまとまった雪は降っていないはずで、2ヵ月半も経ったのにまだ雪があった事に驚いた。





現在地はこの辺

そろそろ道路は終わりそうな感じだ。先のほうに続いている気配がないようだ。





上の画像から50mほどで実質車道は終わっていた。
あるいは、ここに木橋でも架かっていたのかもしれない。
そう言われればこの木々、橋の残骸かも・・・





石垣のある細道を進むと・・・





現在地はこの辺

すごい量の残雪があり、そこは同時に道の終了地点でもあるようだ。
mapion地図がほぼ正しく描かれていた事になる。





残雪の場所まで進んでみた。
おそらくは大規模な雪崩があったのだろう。
探索日現在で、厚いところでは80cmほどの雪が残っていた。

林道探索はこれにて終了だが、倉沢と言えばやっぱり集落跡にも行ってみようと思う。
廃墟は私の守備範囲外になるが、2014年春の現状を見てみよう。

(その5へつづく)

  

東京都奥多摩町 倉沢地区探索記(その5)

【14年4月27日探索・6月2日公開】


現在地はここ

倉沢林道を「終点」の都道204号まで戻り、300mほど日原方向に進んだ。
地図上では現在地から右に細道が延びているが、これがかつての倉沢集落への道であるようだ。

何度もこの場所は通過しており、もちろん倉沢集落の事も以前から知ってはいたのだが、廃墟は私の守備範囲外だという事でこれまで訪問していなかった。
以前他のサイト等で見かけていた廃集落だが、近年になって変化があるとも聞いた。
2014年4月現在、どうなっているのかを見てこよう。

で、ここを右に登っていく。





いきなりこんな道だが、途中に「倉沢のヒノキ」という名所があるので、少なくともそこまでは道も現役のはずだ。





ま、山道だからこんなもんだよね。





右側、現在は電線が付いていないが、かつて電柱だった柱があった。
昔は街灯にもなっていたかもしれない。





木製電柱から、何か情報が得られないかとプレートを見てみたが、製造所以外の具体的な情報はなかった。「66」ってあるいは1966年の事かもしれないが。





尾根筋に出た。さらに進む。





何かあった。これが倉沢のヒノキのようだ。





東京都の天然記念物で「千年の大ヒノキ」と呼ばれているそうだ。
都内に現存する最大のヒノキらしい。





倉沢のヒノキの先は限りなく廃歩道になっていた。
ここなども崩落と大量の落ち葉で大変歩きにくかった。





先が、少し開けてきた。





電線の付いている、比較的新しそうな電柱があった。
どこから引っ張ってきた電線だろう?

ともあれ、ここがかつての倉沢集落であるらしい。

(その6・最終回につづく)

  

東京都奥多摩町 倉沢地区探索記(その6・最終回)

【14年4月27日探索・6月3日公開】


現在地はたぶんこのあたり

旧・倉沢集落は山の斜面にへばりつくように建物があったようだ。
奥多摩工業の鉱山社宅群だったらしい。
まずは中心部の平場から下を見てみる。

ほとんどが基礎部分のみになっているが、1つだけちゃんと建っている建物があった。
2005年ころまでおじいさんが一人で集落を守っていたそうだが、97歳で亡くなってから無人になったと聞いていたが、あるいは最低限の手入れは未だにされているのかもしれない。

かなり下の方にあるので、大ヒノキ経由ではなく、倉沢林道からのアクセス道があるのかもしれない。





かなり集落は広かったようだ。
かつては100軒以上の家屋があったそうだ。





上のほうに階段が延びているので、登ってみようと思う。





この集落跡に着いた時から、何か「ゴボゴボ」という音がしていて気になったのだが、2段くらい上の段に簡易水道施設らしきものが残っていた。
水が流入している音がしているようだ。
集落はやはり完全には死んでいないのかもしれない。





建物はあの1軒を除いては基礎部分しか残されていなかった。

簡易水道のさらに2段くらい上には洗濯機が放置されていた。





あ、これ、昔の1槽式だ。
ローラーで「脱水」してたやつだ。ボタンがローラーに挟まって割れるやつだ。懐かしいな。





さらに上部がある。
ずいぶん疲れる集落だな・・・





何か、バーベキュー場だったように見える場所があった。
あるいは集会場あたりだったか?





こちらは、おそらく浴場だった場所のようだ。
画像からはわかりにくいが、埋もれかけの浴槽のようなものも見えた。





もう1段高いところから下を見た。

建物が残っている集落跡も物悲しいが、こうして基礎部分だけになってしまっているのも、何か無機質な感じも相まって空しい。





山桜、かな?

無人になってもおそらくは昔の通りに咲き誇る花が健気で、満開ではなかったが、特別綺麗に見えた。

(おわり)

  

山梨県身延町 国道52号線下山地区の旧道(前編)

【14年5月18日探索・6月4日公開】


現在地はここ
<とりあえず進行方向は12時、のち10時>

山梨県南巨摩郡身延町下山 国道52号線上沢交差点にさしかかる。

昭和43年、新早川橋開通によりで飯富地区までの約2km強が直線に近い線形で結ばれているが、それ以前は2.5kmほど上流に架かる早川橋を経由したかなりの迂回路だった。
現在、早川橋経由でこの区間を行くなら県道37号、県道410号を通る事になるのだが、県道37号には元国道の旧道区間が存在する。

今日はその旧道に行ってみようと思う。
上沢交差点、左折。





左折してからすぐ、再び左折。
このあたりの取り付きの線形は変わってしまっているようだ。





身延山カントリーというゴルフ場を過ぎ・・・





社宅らしき場所の先に簡易バリケードが設置されていた。





現在地はこの辺

地図では通れるようになっていたが、関係者以外立入禁止となっていた。
理由は明示されていない。

私は道路調査の関係者か?? 無理やりこじつけた。





バリケードが設置されてからまだそう長い期間は経っていないようだ。
このあたりの路面は普通の旧道レベルだ。





カーブミラーが残っていた。





昭和59年山梨県による設置、県道になってからのものだ。

この区間に国道時代のものが何か残っているのかと、この旧道がいつまで県道であったのか、この2つが探索のポイントになる。果たして何か成果はあるだろうか??

(後編につづく)

  

山梨県身延町 国道52号線下山地区の旧道(後編)

【14年5月18日探索・6月5日公開】


現在地はたぶんこの辺

練積みの石垣があった。
決定的ではないが、おそらくは旧・国道時代、あるいはそれ以前からの構造物かもしれない。

この先に建っているカーブミラーには・・・





その建造年度、平成7年、設置者は山梨県だと書かれていた。
つまり、平成7年にはまだバリバリの現役県道だった事が伺えた。





少し広くなる箇所があったり・・・





この切り通し区間などは乗用車同士でも離合には相当気を遣う1.5車線幅だった。





峠を過ぎたようで、道は下りになる。
車はもう来ないはずだが、つづら折と落石には注意が必要だという。





先ほどの石垣よりも多少後の年代っぽい石垣の擁壁があった。





右から現道が近づいてきた。

この旧道が国道52号線だったのは昭和43年までで、以降は県道37号(昭和43年当時同番号だったかどうかは不明)として過ごしてきた。
で、現道が開通、つまり旧道が旧道落ちしたのはいったいいつだったのか?
これまた正確にはわからなかったが、現道にある標識のうち平成11年設置が多かった事から、その頃なんだろうと思う。





簡易バリケードがこちら側にもあった。

平成11年以降のいずれかの時期に、身延町道となったはずの旧道だが、ここ2、3年前くらいに道路としての役目を終わらされているようだった。





バリケードの先は日当たりが良かった事も、その印象を大きく左右したのだが、旧国道の廃と現役の呟きが聞こえてくるようだった。

(おわりですが、続けて元国道の早川橋に行きます)

  

山梨県身延町 元国道52号・早川橋

【14年5月18日探索・6月6日公開】


現在地はこの辺
<撮影方向は10時の方向>

昨日アップの最後の画像の場所から約1km、北西に進んだ。
現在私がいる場所も、昭和43年の新早川橋開通以前は国道52号線であったはずの道だ

約100m先の早川橋を撮影しようとして少々驚いた。
隣に、新しい橋が建設中じゃん!





プラットトラス橋である現橋の向こう側に建設中なのは、完全に一回り大きなアーチ橋だった。





現在の橋には14tの重量制限が課せられている。けっこう老朽化しているという事だろうか。
なお、橋の袂より、山梨県道410号粟倉飯富線となる。





トラス好きにはたまらに光景と言えようか。
「この中に三角形はいくつあるでしょう?」なんて問題を作ったら答えてくれる人はいるのだろうか?などと変な事を考えながら渡橋した。





反対側には親柱が健在で、早川橋という名の他に、昭和九年八月という竣工年月が右書きで刻まれていた。





新橋が出来たらきっと撤去されちゃうんだろうな・・・

昭和43年まで国道52号線の橋としての重責を務め、ほぼ80年もの間数多くの車や人たちを向こう岸に渡し続けたこの橋に、少し早いが「ご苦労様」というねぎらいの言葉をかけてきた。

ところで新橋は現橋と同名の「早川橋」になるのか、「早川大橋」とか「早川新橋」とか別名になるのか、この場ではわからなかった。





来年1月いっぱいが新橋の工事期間なので、見に行こうという方はお早めにどうぞ!

  

東京都あきる野市 地図に描かれている都道表記

【14年5月10日探索・6月7日公開】


現在地はここ

東京都あきる野市草花 東京都道165号線上に私はいる。
この場所の地図を見ると、何とも不可解な感じで都道色が塗られている。

都道29号立川青梅線に注目!
本都道はこの地域で多摩川を挟み3本に分かれているのだが、今回の注目点はそこではない。
左の階段を上がったその場所、陸橋の袂から北側が都道になっていると描かれているのだった。それはyahoo地図だけではなく、mapion地図などでも同様に塗られている。

ちなみに、右にある超急な階段(というか梯子と言った方が近い)を登ってもどこにも行けない。





この階段を登る。





現在地はここ

ちょうど陸橋の袂から6時方向の陸橋を見たところ、つまり都道色の境界地だった。
下に何かが埋まっている。





東京都のマークだった。
これが東西に走る都道165号線の境界柱なのか、地図に描かれている29号の境界柱なのかは不明だった。





同じ場所で今度は9時の方向、都道165号線からのアクセス道を見る。
今度も何かが建っていた。





これまた東京都の境界柱だった。
ただ、この場所は元々都道色にはなっていない。疑問が広がった。





陸橋から11~12時方向に進む。
この先にある街灯を見れば・・・





秋川市役所・・・合併前の市名だな。
どちらにせよ地図では都道色になっているが、少なくとも現在は都道ではないようだ。





現在地はここ

ここを右折すると比較的広い道になり、その先の2車線区間は都道の街灯管理プレートが付いていた。





現在地はここ

地図上、都道色には塗られていない区間、永田橋まであと100mほどの道の街灯だが・・・





都道としての管理プレートが付いていた。

結論、以前は不明だが、現在では普通に接続する広い道が都道である。

  

埼玉県秩父市 主要地方道沿いのトラス半廃橋

【14年6月1日探索・6月8日公開】


現在地はここ

埼玉県秩父市品沢 県道(主要地方道)43号皆野荒川線から2時の方向、篠葉沢に小さな橋が架かっているのが見えた。





先に何か建物があるようだが、どうも使用されていないようだ。





さらに拡大してみる。
この橋、トラスかも??

近づいてみよう。





県道から橋へ、距離にして10mほどのアプローチだ。





橋の先は藪がすごくなっている。やはり廃橋になっている可能性が高い。
また、橋の床板は意外な事に舗装されていた。というより、コンクリが床板になっているタイプのようだ。





完全によく見える場所になかなか行けなかったのだが、構造は確認できた。

やはり上路トラスとなっていた。

  

山梨県早川町 県道37号角瀬トンネル旧道(前編)

【14年5月18日探索・6月9日公開】


現在地はこの辺
<進行方向は8時だが、現道よりも上側>

山梨県南巨摩郡早川町高住 県道37号南アルプス公園線だ。
これから行く区間は「山行が」で紹介済みではあるが、私としては初探索の山梨県早川町だ。
追体験にはなるが、それでも楽しめそうな廃隧道がまているはずだ。

慎重に道を渡り、旧道分岐へと進む。





一応、チェーンはあったが、立入禁止表記はなかった。

現トンネルは1980年竣工だったので、それ以前の旧道へと進んでいく。





小さな沢を渡る。現道はカルバートでクリアしているのだが、この旧道は築堤でのクリアだ。
なお、分岐からすぐは舗装されていない(おそらく付替か工事区間だったためか?)。





路面は舗装になった。
しばらくはのどかな雰囲気の旧道だった。





しかし、前方に明らかな異変が確認された。





ありゃあ・・・

大御所さんが探索した2011年1月の時点ではここの崩落はなかった。
この3年余りの間に起きた崩落のようだ。
困ったな・・・





ヘリオスは待機させればいいとしても、単独でもここは危ない。
もし少しでも滑落したら、この角度だからおそらく崖下まで転落する。
止めようか・・・





しかし本当に危険なのは2mくらいだったので、4本足を使い、どうにかここを越えた。要した時間は約3分だった。

★この場所は本当に危険です。もしもここを訪問される方が居られたら、2枚上の画像手前から高巻きが可能です。私は帰りにそれを発見しましたが、行きの時点でそれを発見できなかった事を悔やんだくらいです。訪問自体を推奨はしませんが、この場所では高巻きルートをお勧めします★





旧隧道到着!
扁額などはないが高長隧道という大正11年竣工・延長50mの隧道らしい。





入洞するとすぐに目に入るのは、20mくらい先でさらに狭くなっている事だった。
昭和55年(1980)まで路線バスや観光バスも通ったはずの隧道だが、標識の高さからすると、本当に通れたのか??





「その他の注意標識」と補助標識「自転車 歩行者」が残っていた。
狭い隧道だが、かつての早川町の生命線でもあったので、自転車や歩行者も通ったようだ。

交互通行の信号規制などはなかったのだろうか??

(後編につづく)

  

山梨県早川町 県道37号角瀬トンネル旧道(後編)

【14年5月18日探索・6月10日公開】


現在地はこの辺

高長隧道の狭い区間(というか、元々の区間)に入った。
路面はというと、舗装されていたものとは思うが、まるで未舗装のような状態だった。





隧道内部だ。
コンクリ巻立てはすぐになくなり、素掘りに変わった。





窓のある区間になった。
2つあった隧道を一つにつなげた結果、このような区間が生まれたようだ。

こんな窓があればその外が当然気になる。





穴からの正面方向だ。
早川の流れと、早川町の薬袋地区と思われる集落が見えた。





右側はただの藪しか写っていなかったので省略し、これは穴の左側を写したものになる。

山行がのレポによればこの位置にかつて橋が架かっていた可能性が高いという。





前進再開だ。
とは言っても出口はもうそこに見えていた。

こちらは切川隧道、昭和2年竣工だ。





近づいてみて・・・ガーン!!

こちら側の隧道出口にはフェンス(というか、バリケード)が設置されていた、
物理的には乗り越えればいいのだが、外には人の気配も感じられたのでやめておいた。

ふう・・・
またあの崩落を戻るのか・・・

しかし、坑口前の崩落には高巻きルートがあったのだった。
行きに見つけていれば、ずいぶん精神的に楽だったのになあ・・・





現在地はここ

現道の角瀬トンネルを抜け、反対側坑口を望む場所にやって来た。

駐車場のような旧道スペースの先に行く。





ガードレールがとぎれた、その先が旧道のようだ。





すぐに切川隧道の坑口が見つかった。

隧道左には旧旧道があるようだが、今回は省略。
その代わり、このすぐ近くの旧道である春木川橋に行ってみよう。

(おわり、ですが、春木川橋の記事に続く)

  

山梨県早川町 県道37号春木川橋旧橋

【14年5月18日探索・6月11日公開】


現在地はここ

昨日の記事でも出てきた角瀬トンネル出口付近から、トンネルと反対方向(9時の方向)を見ると、橋が架かっている。
昭和55年3月竣工の新春木川橋だ。

そのネーミングから、当然「旧」春木川橋があるわけで・・・
新春木川橋から80mくらい南側に架かる橋が旧橋になる。旧橋にはとんでもないお宝が隠れているらしいのだ。行ってみよう。





旧橋へのアプローチだ。
右上に何か見慣れないものがあるが・・・





木のやぐらの上に水か何かのタンク(に見えるもの)が載っていた。





橋が見えてきた。





これが昭和8年4月竣工の春木川橋だ。
お宝は??





橋の中央よりも少し右岸寄りに、それはあった。
拡大してみよう。





「山行が」の記事でも見た、かつての馬車鉄道の線路とされるレールがまだ現存していた。





実測は76cmだという事だが、ヘリオス号で測定すると0.5ヘリオスになった。
単純計算では77.5cmになるので、誤差範囲と見てよいと思う。





反対側(左岸)まで渡った。
こちら側には14tの重量制限の標識があった。





橋自体は工事中であったようで、橋脚の様子とかはよくわからなかった。

  

東京都日の出町 都道31号旧道(前編)

【14年5月10日探索・6月12日公開】


現在地はここ
<進行方向は概ね3時>

東京都西多摩郡日の出町大久野 東京都道31号青梅あきる野線・通称秋川街道だ。
私が現在いる場所から二ツ塚峠手前まで道が二手に分かれている。北のほうから少し回りこんでいる道が現在の都道なのだが、実はその旧道が世紀東急工業の前を通る道なのだ。

さらに世紀東急工業の先、二ツ塚峠手前の区間の道が地図を見る限り、怪しげだ。
これは、確かめてみたくなった。

そんな訳でこの、わざとらしく分岐させられた旧道区間へと進む。





前の画像でお断りするのを忘れたが、最初から6枚目までの画像は色合いがわざとらしい。
これは私のカメラの撮影モードが「ポップモード」になっていたのを気づかなかったためだ。
少々御見苦しいがご容赦頂きたい。





旧道はここを直進だ。
ちなみにこの先を左折するのがこの記事になる。
1枚目の画像の場所はまったく同じ場所だ。
記事にもあったカルバートを調べるうちに、ここが都道の旧道である事がわかったという流れだ。

カルバート探索のきっかけになったのがかすがさんの記事だったのだが、ごく最近のかすがさんの記事でもここを含む都道旧道の事が取り上げられている。





しばらく1.5車線幅の道路を進んでいくと、小さな川を渡る橋が架かっていた。





橋の名は山中橋、その架橋は昭和9年11月だった。

こういう旧道の遺構が、今なお現役として残っていた事はうれしかった。





どこまでが公道なのかが不明な感じになる。
ここら一帯、道路以外は世紀東急工業の敷地っぽい。





道路が二手に分かれるので一瞬戸惑ったが、何のことは無い、10mくらいで再び合流するのだった。





世紀東急工業社は残土や砕石なども手がけているようで、そのため、搬入搬出のトラックの出入りが多い。しかし、狭いためか山中橋側の道路は使用しないようで、拡張された(?)北側の道路が使われている。





現在地はここ

ヘアピンカーブの先、約100m進めば都道の現道に合流するのだが、これから行くのはこヘアピン地点を右に行く道になる。
その道こそが昭和32年ごろまでの都道だったはずの道なのだが、地図の時点で怪しい道であろう事は簡単に予測ができていた。

(後編につづく)

 

東京都日の出町 都道31号旧道(後編)

【14年5月10日探索・6月13日公開】


現在地はここ
<進行方向は概ね2時>

このヘアピンから現在の車道を通れば100m弱で都道の現道に合流する。
が、元々の旧道はこのヘアピンカーブ地点から右へ延びる、地図にはものすごく頼りなく描かれている約200mの道のほうだ。
ここは当然右折だ・・・





が、いきなりの廃モードである。
日の出町役場のものと思われる簡易バリケードがあったが、進入禁止的な文言はどこにも書かれていない。なので、進んでみる。





最初のほうは車の轍がはっきりと見えるが・・・





ほどなく、こうなった。5月にしてこれだけの草が生い茂っていた。
昭和32年ごろまでの都道だったはずの道だが、未舗装であったようだ。





左には立派な擁壁が現れたのだが、この道路の擁壁だったのか、現道の路肩施工だったのかが不明だった。





平場があるのでどこが道路だったのかはわかる。

ところで、地図には現役のごとく描かれているのだが、問題はないのだろうか?






先のほうが明るくなってきた。





現在地はここ

現道がわずかに上、という場所まで近づいてきた。
地図では現道に合流するように描かれていたが、旧道はこの場所で終了である。

私はここをよじ登って現道へ復帰した。

(おわり)

  

群馬県下仁田町 あの旧国道の木製トラス橋へ(その1)

【14年5月25日探索・6月14日公開】


現在地はここ
<進行方向は概ね8時>

群馬県甘楽郡下仁田町南野牧 国道254号線だ。
今日は「山行が」で紹介され一躍有名になったあの廃橋へ行こうと思う。

この先でバイパスと旧道が分かれる。
進むのはもちろん旧道になる。





旧道に入って、最初に目に付いたのがこの階段つき急坂だ。



昭和38年竣工の吉野橋を渡る。





その先にはところどころ集落がある。

ところで、先のほうに何か標識のようなものがあるが・・・





かなりくたびれた状態だが、おにぎりだった。

旧道のおにぎりは撤去されたと聞いていたのだが、こんな状態ながらも残っていた事で少々テンションは上がった。





その先で右折し市の萱川を渡る。





橋梁名は三ツ瀬橋のようだ。
このあたりは結構大きな集落となっている。





現在地はここ

目的地まではまだ幾分かの距離があるのだが、またしてもおにぎり発見!
ここは私を飽きさせない道だ。





進行方向左側のほうだ。
廃れ具合がなんとも言えない。

廃道のおにぎりもいいのだが、こんなのも味があっていいかも・・・





これが進行方向右、つまり反対側を向いていた方になる。

(その2へつづく)


  

群馬県下仁田町 あの旧国道の木製トラス橋へ(その2)

【14年5月25日探索・6月15日公開】


現在地はここ

市野萱集落だ。
茶色の建物の先の電話ボックスの所がバス停だ。ここから、バスの大きさは小さいと思うが、少ない日でも10本は町中心部へバスが出ている。





群馬県道・長野県道44号下仁田浅科線の起点がここで、右に分岐する。
主要地方道ではあるが、不通区間もあり、険道臭がぷんぷんする。
いずれそちらも行ってみようかと思う。

旧道は既に国道ではないと聞いているのだが、ここにも現役並みのおにぎりが残っていた。





イイ感じの集落を過ぎると・・・





あ!またおにぎり発見!





5mくらい進み、振り返るとこうだ。

左に分岐する道があり、旧道のほうには「この先急カーブ」の赤い看板が残っていた。





ちなみに、私の進行方向側のおにぎりは普通には気づかないような場所に隠れていた。





あと500mくらいで目的地だ。
ところで、この先、いやに狭いな。





ここほどではなかったが、国道だった道にしてはけっこう狭い。
実測2.3ヘリオス、3.8mの幅員しかなかった。





そんな道を進む。
このカーブを曲がると・・・





現在地はここ

落合橋、やっと目的地についた。
あの旧橋は、右だったな。





けっこう草木が茂っていてよく見えないが、ちゃんと架かっているようだ。



(その3・最終回につづく)
  
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