【15年11月22日探索・12月21日公開】
現在地はたぶんこの辺
はるか下方の案内看板に従って、すさまじい坂、というか崖に近い斜面を登って来たのでこれが「赤岩観音堂」である事は理解したつもりだったが、あまりの予想外の展開に頭の中が整理できていなかった。
ともかく「観音堂」に近づいたのだが、その手前側にも何かあるようだ。先にそちらに行ってみよう。
ともかく「観音堂」に近づいたのだが、その手前側にも何かあるようだ。先にそちらに行ってみよう。
小さな祠のようなものがあるのだが、中身は不明だった。
さすがに勝手に開ける気も起きなかったし・・・
さすがに勝手に開ける気も起きなかったし・・・
で、改めて「観音堂」を覗き込んでみる。
中に本尊らしき仏像がある!
中に本尊らしき仏像がある!
左側から回り込んだ。
元々の造りはこうなってしまってはわからないが、ともあれ建物の左側からならば半崩壊状態の建物の「奥」に行く事が出来る。
元々の造りはこうなってしまってはわからないが、ともあれ建物の左側からならば半崩壊状態の建物の「奥」に行く事が出来る。
そうやって本尊の目の前にやって来た。
・・・これ、観世音菩薩??
・・・これ、観世音菩薩??
賽銭箱もなく、今では管理者すら居ないという事なのだろうか?
本尊に参拝を終えた私は振り返った。
いやあ、こりゃあ凄いな・・・
崩落するまで、もうそれほどの時間は要しないのかも知れない。
★現地でのレポは終了で、ここからは机上調査です★
これほどの衝撃物件だったので、図書館に何度か通って調査を試みた。
現在は秩父市だが合併する前の自治体「吉田町史」ですら本文には記載が無く付属資料の年表にさらっと書かれていただけであり、調査ははかどらなかった。
そんな中で大いに参考になったのが「秩父路の石仏(国書刊行会・1978)」と「秩父の伝説(秩父市教育委員会・2007)」の2冊の本だった。
【以下、この2冊の本から抜粋、編集したものを記述する】
そんな中で大いに参考になったのが「秩父路の石仏(国書刊行会・1978)」と「秩父の伝説(秩父市教育委員会・2007)」の2冊の本だった。
【以下、この2冊の本から抜粋、編集したものを記述する】
そして判明した事は「観音堂」は寛保3年(1743)に建立されたものである事だった。なんと、270年以上前!!
女部田(おなぶた)集落出身の竹三郎という青年が出家し、多宝寺(長瀞町)で修行、宝永7年(1710)に当時無住になっていた三峰山に入り後に見事復興させ、「大僧都日光法印」の名を授かった。
寛保3年(1743)、女部田に戻り、この赤岩山の岩壁を彫って仏を祀り小さな堂を建て「日光庵」と称した。当時の秩父観音霊場巡りの巡礼には入っていなかったが霊場31番から赤岩観音を経て32番へと向かうコースがあったそうで参詣者で賑わったという事だが、法印の死(宝暦3年・1753)後、衰退の一途をたどり廃寺になってしまったらしい。
そして今標高300m程の通称赤岩と呼ばれる砂岩上には石仏大日如来が安置され、遥かに武甲、秩父盆地が望まれる。
観音堂はこの切り立つ岩盤浸食された15坪ばかりの洞窟を利用して建てられたもので、今は荒廃甚だしく見る影もない内陣正面の岩壁を穿(うが)って龕部(がんぶ)を造り、ここに本尊を祀って礼拝したのであろう。
寛保3年(1743)、女部田に戻り、この赤岩山の岩壁を彫って仏を祀り小さな堂を建て「日光庵」と称した。当時の秩父観音霊場巡りの巡礼には入っていなかったが霊場31番から赤岩観音を経て32番へと向かうコースがあったそうで参詣者で賑わったという事だが、法印の死(宝暦3年・1753)後、衰退の一途をたどり廃寺になってしまったらしい。
そして今標高300m程の通称赤岩と呼ばれる砂岩上には石仏大日如来が安置され、遥かに武甲、秩父盆地が望まれる。
観音堂はこの切り立つ岩盤浸食された15坪ばかりの洞窟を利用して建てられたもので、今は荒廃甚だしく見る影もない内陣正面の岩壁を穿(うが)って龕部(がんぶ)を造り、ここに本尊を祀って礼拝したのであろう。
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観音堂の記述はほぼ「秩父路の石仏」からの引用なので、1978年時点では既に「荒廃甚だしい」状態だったようだ。
また、気になったのは、赤岩の砂岩上には「石仏・大日如来」が安置・・・の部分だ。私には石仏には見えなかったぞ・・・
また、気になったのは、赤岩の砂岩上には「石仏・大日如来」が安置・・・の部分だ。私には石仏には見えなかったぞ・・・
いずれにせよ、崩壊寸前とは言え270年以上も前の貴重な建造物がこんな山の中に建っていた事、それがまったく知られていなかった(地元の文化財ですらない)事、そんな衝撃的物件を紹介できた事は意義のある探索と調査になった・・・かな??
(おわり)