【14年12月21日探索・15年1月23日公開】
現在地はここ
昨日の記事の終わり部分と重なるが、私設橋と思われる橋の先に車が停まっていた。
本来目論んでいたのは、この少し先を左に入り廃橋を反対側から攻める事だったのだが、あの車に人が乗っていたら何か咎められるかもしれない。
本来目論んでいたのは、この少し先を左に入り廃橋を反対側から攻める事だったのだが、あの車に人が乗っていたら何か咎められるかもしれない。
なので、この1枚だけをさっと撮影しすぐに元来た方へと戻る事にした。
まあ、橋を渡った収穫としては橋完成の銘版があった事か。
昭和44年3月に相模興業(現・人の森株式会社)という会社が架けたものであるようだ。
昭和44年3月に相模興業(現・人の森株式会社)という会社が架けたものであるようだ。
あとは、謎の石碑があった事か。
河田一族って、誰だろう?
人の森株式会社のHPを見ても河田という名は創業者でも歴代社長でもない。
が、会社にとってはゆかりのある一族なのだろう。
河田一族って、誰だろう?
人の森株式会社のHPを見ても河田という名は創業者でも歴代社長でもない。
が、会社にとってはゆかりのある一族なのだろう。
本来の目的が達成できなかった悔しさのためか、ここだけで4枚目の画像を撮影していた。
元の入口に戻ろう。
元の入口に戻ろう。
やっぱり未練がましかった。
私設橋から廃橋を見てみた。
私設橋から廃橋を見てみた。
ところでこの橋、竣功時期はわかったが、名称が現時点で不明である。
どこにも橋の名は書かれていなかった。
どこにも橋の名は書かれていなかった。
どうしても廃橋に立ちたかった。
やっぱり、一旦撤収したここから再チャレンジしてみるか・・・
やっぱり、一旦撤収したここから再チャレンジしてみるか・・・
先ほどの撤収地点だ。
右からこのバリケードを越えるのだが、その右側に何か書かれているものが残っていた。
右からこのバリケードを越えるのだが、その右側に何か書かれているものが残っていた。
この画像はバリケードを越えたが、まだ藪でもがいているところだ。
藪こぎした事のある方ならおわかり頂けるかもしれないが、冬場であっても特にバラ科植物が進行の阻害と服装の破壊と足へのひっかき傷をもたらすのだ。
藪こぎした事のある方ならおわかり頂けるかもしれないが、冬場であっても特にバラ科植物が進行の阻害と服装の破壊と足へのひっかき傷をもたらすのだ。
それでも数分をかけて華厳橋旧橋へ降り立つ事ができた。
これはその廃橋から、日常を見た所になる。
橋自体は短いのですぐに反対側バリケードがあった。
そしてその手前の両側の高欄にご褒美とも言えるものがあった。
そしてその手前の両側の高欄にご褒美とも言えるものがあった。
ひとつはこの旧・華厳橋の竣功についての情報だった。
昭和34年度施工の文字の発見だ。
という事は、この橋が現役だったのはわずか10年足らずという事になる。
昭和34年度施工の文字の発見だ。
という事は、この橋が現役だったのはわずか10年足らずという事になる。
コンクリートの橋なので、強度不足になったという事か?
しかし、人の森株式会社の華厳工場は昭和45年操業開始となっている。
しかし、人の森株式会社の華厳工場は昭和45年操業開始となっている。
じゃあ、この橋の架橋目的は何だろう?
その答えの半分は、反対側の高欄にあった。
昭和33年農林災害復旧橋梁工事によるものだと刻まれていた。
昭和33年農林災害復旧橋梁工事によるものだと刻まれていた。
元々は地域の生活道だったのだろうか?
(おわり)