【17年3月24日探索・5月6日公開】
現在地はここ
広島県広島市中区銀山町 3月に出張で広島に行った際、宿泊翌日の集合時間前に探索をしたのが、京橋川に架かる橋3本だった。
3本の中では1番下流に架かる橋が柳橋、自転車と歩行者のみが通れる橋である。
3本の中では1番下流に架かる橋が柳橋、自転車と歩行者のみが通れる橋である。
反対側(左岸)から見た。
こちらは名称が漢字で刻まれていた。
こちらは名称が漢字で刻まれていた。
初代の橋は明治11年(1878)に賃取橋として架けられたようだが、その後何度か水害で落橋したようだ。昭和20年(1945)8月6日の原爆の影響により自然発火し、約1時間で焼け落ちたという。
横から見た。現在の橋は直感的には昭和30年代の造りだな、と感じていたが、調べたところその架橋は昭和39年(1964)5月、私の予想はギリギリ当たっていた。
右岸側に戻り、上流方向に進もう。
途中、こんなのがあり、川辺近くに降りられるようだが・・・
これは何だろうか?船着き場?
戦前からある構造物っぽいな・・・
戦前からある構造物っぽいな・・・
ひとつ上流側の橋はゲルバー桁の3連の橋だった。
親柱にその名が刻まれていた。
稲荷大橋、そして当時の知事、楠瀬常猪の名も刻まれていた。楠瀬氏は昭和22年(1947)から昭和25年までの広島県知事だ。そしてこの橋は昭和25年架橋なので一致する。
稲荷大橋、そして当時の知事、楠瀬常猪の名も刻まれていた。楠瀬氏は昭和22年(1947)から昭和25年までの広島県知事だ。そしてこの橋は昭和25年架橋なので一致する。
本橋の最大の特徴は道路(県道164号広島海田線)、軌道(広島電鉄本線)の併用橋である事だ。
橋の袂にこのような案内写真が掲げられていた。
昭和20年以前、この地に架かる橋は電車専用だったが、原爆投下によりご覧のような状態になり電車の運行はストップした。それでも落橋は免れたので、多くの人がこの橋を通り東側に逃げていったそうだ。
昭和20年以前、この地に架かる橋は電車専用だったが、原爆投下によりご覧のような状態になり電車の運行はストップした。それでも落橋は免れたので、多くの人がこの橋を通り東側に逃げていったそうだ。
こちら側からも改めてゲルバー桁橋を拝み、この上流に架かる橋へと向かう。
150mほど上流に架かる橋、あれが最終目的の橋であるようだ。
(後編につづく)