【17年2月26日探索・4月8日公開】
現在地はこの辺
丸子橋を渡り神奈川県川崎市中原区に入った。
そして丸子橋のアーチ部のほぼ全景を振り返った。
そして丸子橋のアーチ部のほぼ全景を振り返った。
東急東横線、目黒線の高架下をくぐると・・・
この画像は上丸子天神町横断歩道橋から目的地周辺を撮影したものになる。
かつてここにあったものとは・・・
かつてここにあったものとは・・・
現在地はここ
階段がある。
その向こう側も何だかピッチの違う階段??
その向こう側も何だかピッチの違う階段??
階段状のコンクリートには孔がほぼ等間隔であいていた。
ここにはかつてサーキットがあった。多摩川スピードウェイ(オリンピアスピードウェイ)と呼ばれており、日本初の常設サーキットであった。
コンクリの孔はベンチ状観覧席の支柱であったようだ。
ここにはかつてサーキットがあった。多摩川スピードウェイ(オリンピアスピードウェイ)と呼ばれており、日本初の常設サーキットであった。
コンクリの孔はベンチ状観覧席の支柱であったようだ。
ここもスピードウェイの名残になっているようだ。
そしてその地面にはプレートが埋め込まれていた。
そしてその地面にはプレートが埋め込まれていた。
昭和11年5月に完成した収容人数3万人という相当の規模だったと書かれている。
肝心のコースの方は1周1200mの簡易舗装だったようで、こちらは現存していない。
肝心のコースの方は1周1200mの簡易舗装だったようで、こちらは現存していない。
コースが写っている部分を拡大した。
右の方の観覧席付近に今私はいる事になる。
右の方の観覧席付近に今私はいる事になる。
それを踏まえて再度観覧席上部に行ってみる。
かつての興奮を想像する事はちょっと難しい。そんな事よりもここがそういった場所だった事に最近まで気付いていなかったのだ。東急東横線には私が記憶する限り5歳くらいから相当数乗車しており、車窓からこの場所も何百回も見ていたはずなのに、だ。
かつての興奮を想像する事はちょっと難しい。そんな事よりもここがそういった場所だった事に最近まで気付いていなかったのだ。東急東横線には私が記憶する限り5歳くらいから相当数乗車しており、車窓からこの場所も何百回も見ていたはずなのに、だ。
少し話が逸れる。
ちょうどこの場所、多摩川の堰がある。
昭和40年代くらいには多摩川の汚染がひどく、ここに堰があったために洗剤混じりの川の水がかなり泡立っていたという記憶のほうが、私的には強い場所なのだ。
ちょうどこの場所、多摩川の堰がある。
昭和40年代くらいには多摩川の汚染がひどく、ここに堰があったために洗剤混じりの川の水がかなり泡立っていたという記憶のほうが、私的には強い場所なのだ。
ちょうど東横線の5050系が通過していった。
私は車窓からの注意力をもっと高めないと、なんて思っていた。
私は車窓からの注意力をもっと高めないと、なんて思っていた。