【17年1月29日探索・5月18日公開】
もう少し草木橋の上から見える光景を観察する。左岸側に移動しよう。
現在地はこの辺
草木橋の左岸真下付近に国鉄足尾線旧線の草木駅があったそうだが、それらしい跡はわからなかった。
疑わしい平場もなかったので、今回の渇水ではそこまでではなかったようだ。
疑わしい平場もなかったので、今回の渇水ではそこまでではなかったようだ。
で、そんな左岸側から下流側(ダム側)を見ると、気になった構造物が見つかった。
この画像の右の方、残雪の下の方になるのだが・・・ズームが足りない。
橋?隧道? ここからだと判別できなかった。
橋?隧道? ここからだと判別できなかった。
草木橋の袂、右岸側から下の方に降りていく階段がある。遊歩道か?
まあいいや、降りていこう。
まあいいや、降りていこう。
遊歩道はさらに続いているが、このあたりで外れて下に降りていく。
「湖底」に降り立った。
ここはちょうど草木橋の真下、神社の参道だったあたりか。
ここはちょうど草木橋の真下、神社の参道だったあたりか。
現在地はここ
ここは旧国道だった道なのだろう。
先ほど橋の上から見えた橋に近づいた。
先ほど橋の上から見えた橋に近づいた。
この橋のあたりは、ボート乗り場の階段とほぼ同じ高さに位置しているので、水没する事はあまりないのだろう。
湖底だったという雰囲気は感じなかった。
湖底だったという雰囲気は感じなかった。
橋の名は内手橋、昭和32年6月竣工だった。
ちなみに、この場所の沢(枯れているが)の名は打出沢、橋と読みは同じと思われるが字が違う。
ちなみに、この場所の沢(枯れているが)の名は打出沢、橋と読みは同じと思われるが字が違う。
路線名も刻まれていた。
日光大間々線、この路線名は架橋当時の主要地方道の名前だ。
ちなみに、この区間が国道指定されたのは昭和38年4月(二級国道122号日光東京線)である。
日光大間々線、この路線名は架橋当時の主要地方道の名前だ。
ちなみに、この区間が国道指定されたのは昭和38年4月(二級国道122号日光東京線)である。
橋を渡り、南側に進んでいこう。
(その6・最終回につづく)